幼少時に人生を絶たれたかった
パーソナリティ障害を自覚している発達障害者・精神疾患患者の短い日記です。
定期的にカウンセリングを受けることでなんとか社会に出られる精神状態を維持しているのですが、今日カウンセラーの先生と話しているうちに、生きてきて初めて『普通の人は日常的に「幼少時に人生を絶たれたかった」とは思わない』らしいということを知りました。
いろいろな人がいろいろな後悔を抱えて生きているものだと思いますが、私が抱いている『こうあってほしかったこと』は、
多動のせいで車道に飛び出し、トラックに轢きつぶされた。
多動のせいで親とはぐれ、変態に目をつけられて凄惨に殺された。
というものです。
幼少時の私は、多動のせいで興味のままに歩き回り、よく『自覚のない迷子』になっていました。
その多動を利用して死を与えられた方が、何十年も苦しみ抜いて生きるよりもいい人生を送れたと思っています。
私の母も、娘の葬式で『可哀想な母親』しぐさをできて満足していたであろうと思いますし。
いろいろな人を診療している先生からも、「極度の鬱状態の人が瞬間的に思うことはあるけれど、北川さんのように比較的躁状態の時でも常にそう思う人は極めて珍しい」と言われました。
以前訪問看護師さんに「早く死にたかった」と言ったら「北川さんはそういうタイプには見えない」と返されたのですが、たぶんプロから見てもイレギュラーなケースなのでしょう。
実際、『明らかな障害児を医療や福祉に繋げず、発達に問題があるのは「末っ子でわがまま」なせいだとし、怒れば済むと思っていら立ちをぶつけていた』親から虐待されながら育つよりも、「自分は愛されていない」と認識する自我が芽生えないうちに死んでいた方が幸せでした。
親に育てられている時に邪魔者扱いされず、ひとつでも『生まれてきてよかった』と思えることがあれば、自分の生に意味を見出すこともできたんでしょうが。
ないものを計算に取り込めないので、今ある数少ない武器をかき集めて頑張って生きます。