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自分の小説受容史

 若い頃の記憶の定着がよかったオタクの、読書についての日記です。


受容史という読み方

 古代ギリシア研究で有名な藤村シシン先生は『受容史』の研究もされています。

 門外漢なのであまりはっきりした説明はできないのですが、例えばアポロンやヘラクレスという神話上の人物の時代ごとでの取り上げられ方を研究する学問とのことです。

 例えば日本では、厩戸王うまやどのおうという人物がいつ頃から『聖徳太子』と呼ばれて神格化に至ったか、というのが謎として取り上げられることがあります。

 そんな大げさな話でもないのですが、私は『その時その本を読んだ時にどう思ったか』という記憶を大事にしています。

北村薫先生『六の宮の姫君』

 私が人生で一番読み返した本は、北村薫先生の『六の宮の姫君』です。

 北村先生の『円紫さんと私』シリーズは、今のライト文芸に多い『日常の謎』ものの元祖と言える作品です。
 シリーズの中の一作『六の宮の姫君』で、大学生の語り手・『私』さんは卒論の資料を集めているうちに芥川龍之介のある言葉に引っかかり、調べるうちに菊池寛との友情を知ります。

 人の死を扱わない『日常の謎』の中でも、何気ない事件すら起きずに『私』さんがひたすら文献を読むことで進むストーリーで、近代日本文学を知らない人から「難しくてついていけない」と言われることもあります。

 しかし、『私小説や手紙の内容を謎として扱い、様々な作家たちの繋がりを追う』展開は、事件が起きないからこそ純粋な謎解きになりえます。
 米澤穂信先生はこの作品を読んで本格ミステリを志した、と折に触れインタビューなどで語っています。


読んだ時の記憶

 前置きが長くなりましたが、何年かおきに読み直すと、そのたびに新しい発見があります。

 最初に読んだのは大学時代の1997~8年頃。
 遅まきながら新本格に触れ、その流れで5~10年ほど主に本格ミステリを読み漁っていました。

 その時は芥川と菊池の濃い友情にドキドキしていました。
 芥川が新婚なのに二人で長崎行ったの……そう……

 次に読んだのは、自分を健常者だと思い込んで非正規で働いていた2002年以降のどこかでした。

「テレビの原作にぴったりの本だと思いました。波瀾万丈ドラマが流行ってますけれど、新しく作らなくても『真珠夫人』をやればいい筈です。貴族の衣裳なんかをきっちり作って、いい台本でやれば絶対に面白いでしょう」

北村薫『六の宮の姫君』(創元推理文庫)P43

 2002年に菊池原作の『真珠夫人』がドラマ化し、ジェットコースタードラマとして話題になりました(未見なのですが、ドラマから『たわしコロッケ』という流行語ができたあたり、完全に原作通りではなさそうです)。
 引用した部分に触れて、「後の流行を言い当てるなんてすごい!」と思ったものです。

 その次に読んだのは震災の後。
 ちょうど私に発達障害の診断が下った頃です。
 物語の中盤で、『私』さんと親友のしょうちゃんが吾妻小富士あづまこふじに登り、裏磐梯のペンションに泊まります。
 折しも、震災の福島への影響が懸念されていた時です。
 地図を見れば吾妻小富士は中通りと会津の境目で、福島第一原発とはまったく離れているのが一目瞭然なのですが、当時無知だった私は「この光景がもう見られなくなるかもしれないのか……」と悲しく杞憂していました。

 その後中年にさしかかって勉強して、文豪への解像度が上がってから、改めて再読しました。
 芥川を失い、菊池は直木三十五さんじゅうごという新たな友を得ましたが、約10年の交流は4行に要約。
 直木の死後の菊池は孤独に苛まれていた、と広津和郎かずおや菊池の愛人・佐藤みどりの著作を引いていますが、実際の菊池には競走馬の共同馬主となっていたほどの友・吉川英治がいました。
『六の宮の姫君』に、吉川に対する言及は一文字もありません。
「これが情報の取捨選択か……著作物は必ず主観で描かれるんだな……叙述トリック……」と、しみじみ創作者のエゴを感じていました。

京極夏彦先生のいくつかの著作

 以前、月岡芳年が出て来る小説『書楼弔堂 破曉』の紹介をしました。

 明治20年代を舞台にするこの連作短編集には、処刑を免れて生き延びた『人斬りの達人』・岡田以蔵も登場します。
 不思議な本屋・弔堂の店主からある本を勧められる以蔵を見て、

  • 生きとったんかいワレ!

  • 本とか読めんのかいワレ!

 と思った記憶が鮮明にあります。
 当時幕末の知識が教科書未満だった私にも、以蔵について『早死にした』『本を読めるような教養はなかったとされている』というおぼろげな知識があったようです。司馬遼太郎の偉大さを感じます。
(以蔵の名誉のために、以蔵が本当に『無教養で頭が悪かった』とする道理の通った一次史料はない、とつけ加えておきます)

 Fate/Grand Order(FGO)で改めて岡田以蔵というキャラクターに触れてから読み返すと、「つらかったね……苦しかったね……」と感情移入して泣いてしまうのですが、ふんわりしていた時の記憶もまた面白いものです。

 同じ京極先生の『百鬼夜行シリーズ』には、相貌失認の人物やものごとをうまく理解できない人物がいます。
 前者の話を95年に読んだ時は「そんな特殊な症状があるのか!」と衝撃を受けていましたが、今読み返すと「脳の発達や器質に問題があるんだろうな……」と型にはまった納得ができます。
 これもまた、再読までの間に得た知識がもたらす読後感の違いです.

 ちなみにその頃、『知的障害を伴わない自閉症=発達障害』の概念は世間にほとんど知られていませんでした。
 京極先生が持ち前の博識さで『今で言う発達障害』のことを知っていたのか、『そういう症状の人』を観察していたのか、大変気になります。

おわりに

 本を読む時の環境(年齢・職業・家族構成など)は、読書体験に大きな影響を与えます。
 同じ本でも、学生の頃、就職してから、子どもを育てている時では、気になる部分も感情移入する人物も変わります。

 ある本をある時期に読む、一期一会の読書体験を大事にしたいですね。
 と言いつつ7月・8月は1冊ずつしか読んでいなくて、9月はまだ1冊も読了していない自分に焦っています。

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