これは、ある小学校の校庭のケヤキ。今では、稀少となった自然な美しさの持ち主です。
最近、身近な場所で、こういう美しいケヤキに
出会うことってありますか?
ごく最近もあったことですが、今は、大きな樹木を見ると、
反射的に「危険!」と感じ、
そう口にする人が多くないでしょうか?
これは、いつの頃からでしょう?
かつては、大きく育った木には、畏敬の念を感じ、
信仰の対象となりました。
だから、仰ぎ見ては手を合わせるか、
頭を垂れるかする存在だったはず。
それが、いつの間にか、
「樹木が大きくなりすぎた」
「大きな樹木は、危険だから切った方がいいのでは?」
「木は手入れしないと!」
と言われるように。
人間が、あらゆるものをコントロールできる、という前提で、
そうしなくてはいけない、
と考えている表れなのかもしれません。
そのせいか、今は、天然記念物に指定されている樹木までもが
邪魔者扱いになって、「こんな木、切って!切って!」などと言われます。
大切に守り育ててきたご先祖様は、どう感じておられるでしょう?
だから、この校庭にある、自然な枝ぶりが美しいケヤキを
最初に見たとき、かなり感動しました。
ですが、その時ばかりでなく、何度見ても感動します。
ありのままで美しい存在、
そして、それが尊重され、大切に扱われている様子を目にすると、
見る人の心も、ゆさぶられます。
今、私が大学で接している若い人たちは、
将来は樹木医になって、自然のために仕事をしたい
という人がほとんどです。
話を聞いて、だからね、と納得するのは、
彼らの多くが、身近にあった樹木と過ごした
豊かな思い出をたくさんもっているから。
木登りしたりハンモックで楽しんだり。
夏の暑い日に、樹木の下ってなんて涼しいんだろう、
と思いつつ、木陰でジュースを飲んだこと、
どんぐりを拾ったこと。
お父さんと一緒に山に行き、葉っぱを沢山取ってきて
押し葉を作ったこと。
ソーラパネルを設置するために、
桜の木を何本も切るのを止められず、
小学生ながら、とてもさびしかった、という話もありました。
こういう楽しかった(一部はさびしかった)経験が、
彼らを支える財産や原動力になっているのを感じます。
だから、この小学校に通い、
立派な木を日々目にして育った子どもたちは、
わざわざ自然や木の大切さを伝えなくても
身についているはず。
ところが、大きな樹木は厄介者に感じられる、
林なんて、お金を生まないからムダ、
と判断された結果、
立派な樹木や、今は若木でも、将来、立派になるはずの木々が
私たちの身の回りから、姿を消してしまったら?
そんな時代の子どもたちは、
どんな思い出を頼りに、自然のかけがえのなさを体験し、
自然や樹木のために、できることをしたい、
と思えるのでしょうか。
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