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最近の生きにくさ、原因は、こういうこと?

今朝もおはようございます。
今日もまた、寝起きに、
なんだかやってきました。

昨夜の遅めの時間から、
ある方に勧めていただいた
『アルケミスト』を読み始めました。
どうも、その影響のような。

この本は、確かに、
今自分が必要としている内容だと
納得しながら、楽しんで読んでいます。
なので、本そのもののご紹介は、後ほど、
この記事とは別にしたいと思います。

さて、これから書きたいのは、
タイトルの「生きにくさの構造」です。

木の生活や生存を守らならなくては、
な仕事をしてきたからでしょうか、
目の前に課題が立ちはだかったとき、
できるだけ関わる要素と全体像を見たい、
と思って、木や環境などを見てきました。

そんな見方をしていると、
課題というのはどれも、「構造的」に見えます。

要は、誰か(だけ)が、何か(だけ)が
悪いわけではなくて、
システム自体に、機能不全なところがある。
で、問題、課題は生じるのであろう、
という立場です。

別の言い方をすると、
「風が吹けば桶屋が儲かる」式の
生態学的なつながり、というのか。

要は、ものごとって、
いろんな要素が関わっていて
それらが連鎖反応的に進行する。

だから、何か、誰かだけを悪者にして、
そこだけなんとかしようとしても、
ムリです、変わりませんね、
ということだと思っています。

例えば、ご近所で長く暮らすキンモクセイたち。
それらの身の回りで暮らす
木の形を見る、見続けていると、
本当に時代の変化を感じます。

木の形がこうまで
短期間に変わっていく、
しかもほとんどの場合に
(どんどん)劣化していくのは、
なぜなのか?

自分なりに答えのようなものを
もっていましたが、
今朝は、納得度がアップしました。

きっと、寝る直前まで
『アルケミスト』を読んでいたから、
と思われます。

人は、近年のとても厳しい管理社会、
雇用状態、格差社会、
ごく最近では物価の高騰などで、
不満や疲労がたまります。
先行きが不安にもなります。

さらによろしくないのは、
SNSや宣伝で、キラキラした魅力的な世界があり、
そういう世界で生きている人がいるのに、
自分はそれに恵まれてない、
と感じることかも知れません。

そうして、人をうらやみ、あおる、
場合によっては、比較して落ち込み
無力感を感じるように仕向ける装置が、
社会的に整備されていることでしょう。

しかも、瞬時に、世界的に、伝わってきます…

確かに、そのような場所に長くいると、
心身ともにおかしくなりそうです。

で、矛先が、誰かに向くのですね。
その誰かとは、社会的弱者、
と人に思われる存在です。

木もその社会的弱者の1つであることは、
確かだと思います。
木の形の変化を見ていると。

人が、本当に自分のしたいこと、
しなくてはいけないことに
自発的に向き合っているときは、
人のことは気になりません、
気にしている余裕はないでしょう。

だから、自分のことで
みんなが忙しくしていた時代には、
葉っぱが落ちて迷惑、とか
枝がはみ出てきて迷惑なんとかしろ!
大きな図体が不愉快だ! 
好き勝手に枝を伸ばすなんてけしからん!
なんてことを木に言う人は、
あまりいませんでした。

それどころではない、
自分ごとで忙しかった、
満足、完結していたので。

それに加えて、
価値観の変化もあります。
今、「畏敬の念」という
ことばを聞いて、
このことばが、
どれくらい久しぶりか思い出してみましょう。
人によっては、読みかた不明かも?

きっと、身の回りを取り巻く
さまざまな要因が、
自分に無力感を感じさせる。
でもシステム自体としては、
ほどほどに豊かで、かなり便利でもある。
そして、自分はまだまだ若く、
まあ健康でもある
(一昔前の人と、自分を比較してみましょう)。

となると、あふれ出る
不完全燃焼エネルギーが、
親切心?や正義感?という形をとって、
「木を何とかしろ!」「けしからん」
となって、
木々の形があのように、
日々劣化していくのであろう、
と思われます。

この記事を書いていて気づいたのは、
自分のフォーカスが、システム全体から、
部分に移ってきたことです。

これまでも、木の形が変化する構造は
おおよそつかめていたと思います。

が、いつも全体を眺めていたので、
どこをどう変えていけるのか?
という感じで、困惑しつつ眺めていました。

ですが、まだ途中までの『アルケミスト』は、
取り組むのは、個々の要素、まずは自分から、
と教えてくれた気がします。

現状のシステムがどうであれ、
その中ですぐに変えられるのは、
常に自分自身だけ。
それでも、自分が変わったら、
周りも、つられて変化するはずですものね。

ということで。
木がのびのびと枝葉を伸ばして暮らすには、
樹木医などがもっている
テクニカルなアプローチも、
もちろん役立ちます。

が、木のそばにいる人が、
本当に自分のやりたいことを
見つけてやり、
(他者が用意してくれた、
推し活の対象でなく?)
人生が充実していて、
いい意味で人(他者)のことが
あまり気にならない、
「木? まあ、どうぞご自由に暮らして下さい」
という状況になればいいのだ、
と思いました。

そのためには、人ではなく、
自分にしっかりフォーカスがあたっていて
自分はどうしたいのか?
一人一人がつかんで離さないでいる
必要がありそうです。

人ごとではありません、
私も、自分へのフォーカスは
まだまだ絞り込んでいく余地があると感じます。

これは、本(を紹介して下さった読者さん)と
木の両方が、そのように仕向けてくれたこと。

『アルケミスト』にあるように、
本気で、「何かを強く望めば、
宇宙のすべてが協力して
実現するよう助けてくれる」。

人が充実して幸せに日々を生きているときは、
木は、いい意味で、そっとしておいてもらえ、
木は木で、幸せに暮らせる。

そういう社会、世界になったらいいのに。

信じるものは救われる、で
今年は、自分から目をそらさないようにして
木と人の幸せを思いつつ、
やっていきたいです。


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樹木も人も笑顔に、樹木医mimi  ( 三戸 久美子 )
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