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【明け方の若者たち】時ともに諦めと、ありふれた喜びよりも快い、静かな憂いをもたらされました。

映画「明け方の若者たち」公式サイトより引用

京王線沿いに住んでいた時、始発の電車に揺られながらふと見た朝日のことを思った。
その日は、雲ひとつないけれど少しだけかすれた空で、太陽はまるでスーパーで売れ残った半額のおにぎりのように少し寂しそうにしていたければ、それでもいつもと変わらないあたたかさで東京を照らしていたし、そんな空をみて、土曜の僕の休日はずっと布団の中だなと考えながら見ていた気がする。

『明け方の若者たち』を見終えて、まず思い出したことがそれだったし、翌々考えると、ここ数年朝帰りする前に意地でもタクシーに乗って帰っている気がして、なんだか少しさみしい気持ちになったりもした。
だけど、この作品を見てなにかしら心に刺さる人種というものはそういうものだろうなという気がする。
今は今で、また違う楽しみ、喜び、可能性を勝ち取っているはずなのに、それでもなぜか失ったものばかりを丁寧に数えて、大切にする。

自分自身のアイデンティティを再構築した瞬間というものはなによりも尊い。それが、誰かを傷つけようが、傷つけられようが、あまりそれは関係ない。その上に自分が構成されていて、それを否定しようならそれは自身の否定につながるからだ。

この作品は予告映像だと恋愛映画のように思えたし、実際途中までは恋愛映画だと思っていたけれど最終的にはタイトルの通り明け方を通り過ぎた若者たちの物語だった。

明け方とは

映画「明け方の若者たち」公式サイトより引用

「夜明けが一番暗い」とか、「夜明けまえ」はよく聞くキーワードだと思う。ワンピースがいい例で、「世界の夜明け」と言ったキーワードが頻繁に用いられるように、夜明け前が一番の深淵の中にて、そこからかすかな光が差し込む。それが夜明け=明け方だ。
サイトで正確な時間帯を確認したところ明け方とは夜中の3時から6時を指し時間らしい。

明け方の前が1番苦しい瞬間であり(真夜中)、その後には必ずしも夜明けがやってくる(日が昇る)と表現されることが多いが、この作品においてはそういうニュアンスで使われてはいない。

この作品では、明け方という本来なら皆が寝ている時間、休んでいる時間に、意味も無く友や、恋人と過ごし、明日のことを考えず、現実に直視することもなく(心配もなく)、ただ、直面しつつある現実の狭間の中で最後の夢を謳歌する瞬間と捉えていた。
狭間という表現がこの作品のもっとも重要な部分で、本作ではそれをマジックアワーと呼んでいたけれど、個人的にこの作品を見たときの狭間というものは20代前半~後半で仕事における責任がまだ実態をもって伴っていない期間というよりは20代という、もっと大きな枠組みの中でのアイデンティティの再構築の期間かもしれないと感じた。

曖昧さを受け入れる、そして決断すること

映画「明け方の若者たち」公式サイトより引用

この作品の中での曖昧さは恋愛という形でいくつかの要素で散りばめられていた。例えばそもそも彼らの関係性という曖昧さ。そして、彼女が旦那と主人公のどちらも同じように愛していた曖昧さ、主人公の生き方そのものの曖昧さと、人生、生きること、仕事などあらゆる事象での曖昧さ。

曖昧さを受け入れる。これは社会人で通る道でもあるし、人生の中で一つの選択の瞬間でもある。例えば恋愛がいい例だと思う。今回主人公側の視点での話だったので、彼女のことはよくわからない、理解できない、悪女だという人もいるかもしれない。
それは一定理解できる。ただし、彼女は事前にそのことを彼に伝えていたし、彼もそれに了承していた。その時点で彼女は立派で、むしろしっかりと変えるべき場所に帰った彼女の意志の強さを褒めるべきなのかもしれない。

実は、Amazonプライムで明け方のアナザーストーリーとして彼女サイドの話として何が起きたのかを90分程度でまとめた映像がある。
これを見ると彼女に対しての見え方が良くも悪くも変わると思うのでまだの方は是非。

結局のところ、この作品を見たときに、すごく感じたこととして、当たり前ってなんなんだろうなと思った。誰か一人としか添い遂げることはできない、浮気はできないなど、それはわかっているし、不貞を犯している自覚は彼女にはあった。ただし少なくとも彼女が主人公に向けていた感情というものは本物だった。そうであるなら、彼女たちの感情のおきどころといいものがなくなってくる。当たり前という考え方と、自分達の感情という一番相反するものは激しく衝突し、現実を受け入れるか、妥協するし、選択することを余儀なくさせる。

主人公は気持ちの整理に一定の時間を要した。それは人によって速さは異なるし、整理の仕方も人によって異なる。大事なのは、自分自身がその状況に客観的になって、どのように受け入れていくか、選択肢、判断し、そのことに納得するかでしかないのだと思う。

最後のシーン、それぞれが違う形で事象へ落とし所を見つけた。主人公は、受け入れること。彼女は決断し、その迷いに対しての納得。

ただの恋愛であることは間違いないのだけど彼らが彼らという人生を生き、成長していく上での必要な過程であり、成長のための痛みだったのだなと思う。ある意味でポジティブに受け取れた。

頑張る20代後半の全員が共感したあの場面

映画「明け方の若者たち」公式サイトより引用

「社会人2〜3年目が一番楽しかった。学生の時よりお金もあるし、体力もあるし、仕事にまだ明確な責任が伴っていない時期だったから、朝までお酒飲んで、現実的でもない理想を語り、夢を話し合って馬鹿をしたあの時が一番楽しかった」

一言一句は違うけれど、鈴蘭通りを酔っ払いながら歩く友人の尚人が語ったこのセリフ。少なくとも彼にとってのマジックアワーはその時だっただろうし、フィルム越しに20代の彼らの人生を見た僕らはそうだろうなと納得はする。ただこの部分はより良い思い出によっていつかは変わるだろうから、少なくとも社会人2〜3年目が本当にマジックアワーなのかどうかはわからない。

ここで伝えたいことは、人生の中で輝かしい時代があり、そのときに感じたこと、熱量を持っていたこと、大切にしていたもの、それぞれの感情を忘れてはいけないということだ。過ぎ去っていく思い出。それは悲しい思い出も、嬉しい思い出も静かな憂いと共に、ありふれた幸せになる。そして時間と共に重要な部分だけが抜き取られ忘れ去られていく。
あのシーンで一番好きだったのは、「渋谷をジャックする」という居酒屋で朝まで語った夢物語を二人はまだ忘れていないこと、いつかは成し遂げたいと信じていること。
この眼差しことが僕らがどんな状況下でも持つべきものなのだろうなと感じた。


「間違いだらけの私だったけど、あの言葉は嘘じゃなかった。私はあの夜、過ちだったとしても確かな光を見てしまったのだ」

引用:ある夜、彼女は明け方を想う

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