「幸福とは何か」と問うこと
二〇二二年に『いまここの「幸せ」の話をしよう』という本を書いたのだが、ほとんど読まれていないし、これを読んだ少数の人たちにも理解されていないのではないかと思う。この本は、幸福についての「心的調和説」──もっと正確に言えば「欲望整合説」──の立場で書いたのだが、そんな立場は現代哲学では存在を認められていないのであるから、理解されていないのは当然と言えば当然のことである。
現代の分析哲学においては、幸福の哲学的分析は「快楽説」「欲望実現説」「客観的リスト説」の三つの立場に大きく分類されるのが常である。あるいは、これらを掛け合わせた「ハイブリッド説」に分類される。しかしいずれにせよ「心的調和説」や「欲望整合説」というのは存在を認められていない。「心的調和説」というのは、ソクラテスやブッダにまで遡れる古典的な立場なのだが、現代では誤解され、どうやら客観的リスト説の中に乱雑に投げ込まれてしまっているようなのである。したがって、これを新たに提唱し直し、擁護しなくてはいけない。そのための議論を何回かに分けて展開していきたい。
ここで行おうとしているのは「幸福とは何であるか」という本質の探究、もしくは概念分析である。これについて様々な哲学的立場があるわけだが、いずれの立場において概ね共通して認められていることとして、次の二つを挙げることができる。
第一に、幸福というのは、たとえば「あなたの幸福」「彼女の幸福」「ペットの幸福」「みんなの幸福」といったように、必ず「何者かの幸福」であり、その当事者にとって望ましいものであると考えられている。誰の幸福でもない宙に浮いた幸福というのは存在しない。
第二に、幸福というのは、何か他の目的に対する手段として望ましいのではなく、それ自体として望ましいと考えられている。手段として望ましいというのは、たとえば「良い会社に就職するためには、良い大学に入学することが望ましい」というようなことである。ここで「良い大学に入学すること」は、「良い会社に就職する」ための手段として望ましいとされているに過ぎない。これに対して「幸福」というのは、何か別の目的のために望ましいのではなく最上の目的であり、それ自体として望ましいのだという共通理解がある。
「幸福」もしくは「幸せ」は、英語では「well-being(ウェルビーイング)」と呼ばれる。「happiness(ハピネス)」と呼ばれることもあるが、そう呼ばれる場合は、快楽説が暗黙の前提とされていることが多い。「ハピネス」は、嬉しかったり楽しかったりといった心地よい感覚のことを指すが、「ウェルビーイング」は必ずしも感覚のことであるとは限らない。それは、あなたや私にとってそれ自体として望ましい何かのことである。
ここでいくつか疑問が浮かんでくる。「あなたの幸福」は、私にとってもそれ自体として望ましいだろうか? 「正義」や「徳」や「快楽」といった概念と「幸福」とはどのような関係にあるのだろうか? ある個人にとって「それ自体として望ましいもの」は、「幸福」の他には存在しないのだろうか? これらに対する答えには様々な立場があり、共通理解は成立していない。ある立場に基づけば「幸福」はこの上なく重要なテーマになるが、別の立場に基づけば、それは大した重要性を持たないことになるだろう。
古代ギリシアにおいて幸福は「eudaimonia(エウダイモニア)」と呼ばれていたが、それは哲学の中心的なテーマだった。しかし近代になるとその重要性が低下していき、二十世紀に入ると哲学者の多くはこのテーマに注意を払わなくなっていく。二十世紀後半からは、幸福の哲学が再び盛んになったという声も聞かれるが、しかしそれは周辺的な哲学パズルとして議論されるようになったということに過ぎず、哲学の中心的な問題であるとは考えられていない。
もちろん書店に行けば、通俗的な心理学や自己啓発といった分野で、幸福について書かれた本をたくさん見つけることができる。しかしそれらは、例えば不安を低減することなどによって、幸福になるための手段を提供しようとするものであって、「幸福とはそもそも何であるか」という問題については深く考察していない場合が多い。それらの本は、幸福についての何らかの立場(客観的リスト説など)を暗黙の前提とした上で、「どうすれば幸福になれるか」という手段を考察しているのである。
しかし、もし目的が適切に設定されていなければ、いくら手段を考察しても仕方がない。それは不適切な目的を達成することになるだけだからだ。そうならないためには、他の目的に対する手段ではない究極の目的について考察する必要がある。私の考えでは、「幸福とは何であるか」と問うことは、そうした究極目的を問うことなのである。