ひかりのコトバ_

ひかりのコトバ。

——君に。
僕が贈りたかった言葉はたった……ひとつ、だけ。


僕は何時から、ここで何をしているんだろう。
何時の間にかここにいる。
何時の間にかここに在る。
毎日の区切りさえもう曖昧になっていて、一日が二十四時間だったとか、一週間は七日だったとか、きっと当たり前だったはずのことももうどうでも良くなっているんだ。
全てが僕の傍らを通り抜けて、すり抜けていく感触がする。
僕には何も掴めなくて、だから何も持たないままにただ佇むことしか出来なくて、ずっとそのまま。
どうしてか、って?
それは多分僕が、もう生命と呼べる存在じゃないから。
——僕は天使。
何時になっても生まれ変われない、落ちこぼれの天使なんだ。

僕らの声は声じゃない。
僕らは便宜上『声』と表しているだけで、多分これは本当の『声』じゃないんだ。
だって口に出さなくても聞こえるから。
否、聞こえているんじゃない。感じるだけ。
飛ばした思念は間違い無く求める存在に届く。
こんな確実でしょうがないモノ、本物の『声』なんかじゃないよ。

僕らは顔を持っているけど、はっきり言ってあまり意味を成さない。
顔があったって、なくたって……一緒、なんじゃないのかなぁ?
そうまで思ってしまうんだ。
みんな、お互い、顔なんていちいち確かめてないから。
近付けば誰かなんてすぐわかる。容貌なんて全く関係ない。
僕は他のみんなの顔が見えるけど、きっと誰かは顔さえも見えてないんだ。
だって、見えても見えなくても変わらないのだから。
それならば。僕には顔があるのだろうか。

身体にしても同じコトで、ちゃんと二本の腕と二本の足とお腹と胸と背中と腰と…多分自分がそうだったんだろうね、人間と同じ形をした身体を持っているけど。
それにしたって何かが違うこともない、みんな同じように働いている。
それから背中からは一対の羽根が生えていて、僕のそれは少し暖かくて柔らかい。
真っ白の中に薄い灰色の影が混ざって、少し水色を帯びた羽根だ。
それなのに……自分のことも忘れるくらい、長い永い時間の中で出来た友達は。
「ここは白くて眩しくて、いつも眠くなるくらい暖かいよね」
確か僕はそんなコトを言ったんだったと思うけど、それにこう答えた。
「そうか? ……明かりが無くちゃ何も見えないくらい、真っ暗なんだけどな俺には。涼しいし」
そのときまでは全然気付かなかったけれど、確かに彼はその手からキャンドルを片時も離したことがない。
僕は見慣れたこの景色が絶対ではないことを、初めて自覚することが出来た。
それなら僕のこの羽根は、本当は何色なの。
彼のあの羽根は、僕には真っ白に見えたけど――彼自身には、何色に見えているのだろう。

こんな世界に居たら心が無くなってしまいそうに思えるかもしれないけれど、僕らはどうやら丈夫なようで色々なモノを感じられる。
目が見えて、耳が聞こえて、匂いも嗅げて、手で触れられて、味もわかるし多分刺されれば痛い。
きっと昔にも持っていた、感情もちゃんと持ってるんだよ。
ただ単にどうも掴みどころがなくって、自分自信のそれを信じていいのかわからないだけ。
ここはいわゆる天国なのか、それとも地獄なのか、誰も知らないでいる。
だけど誰も。知らなくていい、そう思っている。
そんな、微温湯のようなところ。
心地好くて、でも逃げ出したくて、そして自分がわからなくなる。そんなところ。

僕らの仕事は単純だ。何時か自分がそうなったのと同じように、死んでさまよう魂を導くだけ。
僕らは自分のことが全然わからないし、魂達を何処に導いているのかも自分の仕事ながらわかっていない。
だけど時々魂達の中には、僕が一体何処に向かっているのかを教えてくれるヤツも存在する。
「いや……! 死にたくない。……死にたくない!!」
そう言って。暴れる魂と出会ったときには、あぁ僕は死神なのかな……とか。
「ねぇお兄ちゃん、何処に連れてってくれるの? オモチャもある?」
そう言って無邪気に微笑む魂と出会ったときには、あぁ僕は天使なのかな……とか。
自分の正体を確かめようとしながら、僕らは毎日働いている。


この仕事を始める前に、先輩天使達からこんなことを教えられた。
「俺達は罪を償うために働くんだ」
「魂から記憶だけを綺麗に取り出された存在」
「自分の罪を償い終わったとき、やっと記憶を取り戻せて」
「生まれ変わる」
…………そうなんだ。
何も思い出せない、異常なほどの不安を抱えたところに明確な答えを放り出されたような気がして、しばらくは納得していられた。
それでもやがて、自分に対する疑問が甦ってくる。
僕はどんな罪を犯したんだろう。
僕は一体、何をやらかしたんだろう?
何時からここにいるのかも忘れてしまう程ここにいるから、僕が生きて犯した罪はちょっとやそっとじゃ償い切れないくらい重くて深いモノだったのかもしれない。
となると、僕は酷く残虐な人間だったんだろうか。
考えても。
わからない。
そして誰も、教えてくれない。

——そんなある日、一人の少女に出会った。


彼女の双眸は酷く真っ赤で、鼻の頭や頬も真っ赤で、今の今まで泣いていたことが容易く知れた。
未だに嗚咽を止めることが出来ないでいて、僕が近付くと肩をびくりと震わせてこちらを見た。
……そんなに怯えなくっても……。
僕は何時も、そう思ってしまうのだけれど。
こうやって、僕にとっては当たり前の『仕事』であっても。
こうやって、自分が居たところとは全く違う世界に紛れ込んだ『元』人間達にとってはきっと、周りの何もかもが『敵』に見えるのかなとも思う。
派手にしゃくりあげながら、それでも睨み付けてくる真っ直ぐな視線に溜め息が出た。
気が済むまで泣かせてあげたほうがいい気がする。
「あ……なた、誰……なの……っ…?」
不信感も露わにかけられた問いに、僕はわかることだけを正直に答えた。
「僕は、君を連れていかなくちゃいけないんだ」
お互いの声が空気に溶けて、お互いの鼓膜に沁み込んでいく。
この少しくすぐったい、それでいて珍しい感覚は何時も居るところでは思い出せない。
『仕事』として、『元』人間の前に立って、ぽつぽつと話して……そして初めて、思い出すんだ。
僕が『声』を持っていたこと。
この口にも、耳にも、存在する意味が在ったことを。
彼女は少し瞳を見開いて——これで最後。
そう言わんばかりに、僕の目の前で大粒の涙を零した。

「そっか。私はもう、生きてられないのね」
泣き止んで、いくらかすっきりとした表情の彼女は静かに呟く。
僕はその独白に答えられずに、かといって無視するわけにもいかず……無意識に、口をぱくぱくさせていた。
それを目ざとく発見した彼女が、笑う。
先程まで大泣きしていたなんて、信じられないくらい楽し気に。
「カッコだけ見ると、天使みたいね……私、天国に行けるの?」
あまりにも嬉しそうに言うから、僕は思わず目を背けた。
「実際、僕にもわからないんだ……だけど、行けばわかると思うよ」
これは本当の話だから仕方がない。
だけど少なくとも今は、僕は『天使』で居られるらしい。
「何よそれぇ」
「うーん、天国と地獄は紙一重ってことだね」
「……そうなんだ」
「……」

大きく羽根を羽ばたかせながら、彼女の細い手首を軽く握って導く。
その手首は白くて、細いけど少し柔らかくて、シルバーのブレスレットが良く映えていた。
怖がるように——多分、落ちて怪我をするなんてことはないのだろうけど——僕にしがみつく指は少し震えていて。
あぁ、落ち着いて見えるけど、やっぱり不安なんだ。
全てを受け入れたような、さっぱりとした表情をしているように見えるけれどやはり。
僕の羽根がそよ風を起こすたびに、彼女のしなやかで長い栗色の髪が揺れる。
不意に、彼女が僕を見上げて——微笑んだその途端に。

強烈な、既視感。

僕の脳裏に彼女の姿と、知らない誰かの姿がダブる。
……知らない?
きっと、僕は、知っている。
……否。
きっと、僕は、知っていた。

突如浮かんできたイメージを、頭を思い切り振って打ち消す。
「……どうしたの?」
その声はまたも誰かの声とかぶって、軽い眩暈がした。
「……何でもないっ……」
急ぐように羽根を動かす。
上がるスピード。
それにつれて少し力のこもる、ほっそりとした長い指。
段々と近付く終わりに、安堵の溜め息を漏らした。
僕の瞳を緩く鋭く刺す、眩い光の量が増えてきて。
あぁ、これでもう終わる。
この『ヒト』からは逃れられる!
……そう思ったのは何故なのだろう。
僕にとって、彼女は僕の存在を揺るがす脅威に思えた。
そしてこの直感は、きっと次の刹那には真実となる。

「あなた、私の大切な人に似てるわ」
「僕が?」
「あなたが」
「……彼は、まだ生きてる?」
「うぅん。私がここに来るずっと前、きっとここを通ってるはずね」
「そっか……」
「……私ね?」

心を決めるような——すぅ、という呼吸音が聞こえて。

「一番大切な人に、一番言いたかったこと、最後まで言えなかったの」

——あぁ、やっぱり。

驚きから、瞳を見開いた彼女を最後の瞬間に見た。


僕の中から僕を造るモノが、するすると逃げ出していく感覚。
僕の中から僕を保つモノが、さらさらと崩れ落ちていく感覚。
それとは逆に、何か得体の知れないものが流れ込んで。とてつもない勢いで、僕を押し流そうとする。
頭の中に浮かんでは消える、映像と音声と感情——それはもう鮮明に。
泣き叫ぶ声が聞こえて。
花のような笑顔を見て。
儚い表情を浮かべて振り返る彼女。
重苦しい哀しみから目を逸らす僕。

あぁ、これは。
紛れもない、僕の記憶。
逃げられない。僕が背負うべき罪の記録。
どうして僕は、許されるのか?

落ちてゆく僕には何も考えられなくて、ただただその感覚を享受することだけしか出来ない。
ついさっきまで、必ず誰かに届いていたはずの『声』さえも既に持たなかった。
爪先が消えて、手首の先が消えて、腕が消えて。
爪先が消えて、足首の先が消えて、足が消えて。
在るべき身体が崩れて、背中の羽根も崩れて、僕が今の僕であった証が全てなくなってゆく。
だけれど僕がこうして崩れ落ちた先に埋もれていたモノは、全てを失ってなお感じるモノは、『僕』。

そしてこの瞬間に傍らに居る、『彼女』。


「俺達は罪を償うために働くんだ」
「魂から記憶だけを綺麗に取り出された存在」
「自分の罪を償い終わったとき、やっと記憶を取り戻せて」
「生まれ変わる」

「自分の罪を償い終わるとき。それは、自分の犯した罪と同じ罪を背負った者に出会ったときだ」
「彼を、彼女を、ここまで導け」
「魂から切り離され、罪に捕らわれた記憶が」
「そのとき全て、取り戻される」


あぁ、僕が。
僕が犯した罪は、たった一つ。

「愛してる」
君にそう、言えなかった。

「記憶を取り戻しても、それは長くは続かない」
「生まれ変わりは酷く一瞬で、それを悔いる時間も残されていない」
「けれど忘れてはいけない、繰り返してはならない」
「俺達は同じ過ちを犯さないために、もう一度生まれ変わる」

この身体は崩れ落ちてゆくけど、君はこの伸ばした手に気付いてくれた?
この声はもう誰にも届かないけれど、君はこの心の叫びに気付いてくれた?
砂のように零れ落ちる視界から、目の前の彼女が消えていく。
この鼓膜が拾っているはずの彼女の声も、段々と意味を成さないノイズに聞こえてきてしまうんだ。
それでも僕が最後の最後、目を必死に凝らして捕らえたモノは——僕の名前を呼びながら、手を差し伸べる彼女。
その優しい声で。
その優しい手で。
このまま僕に触れて欲しいけれど、もうそんな時間は残されていない。
この瞬間がこれほど突然に訪れるなんて思っていなかったから。
何の準備もなく、一寸の後悔しか出来ずに、また別れるなんて信じられないよ。
だけど僕は気付いてしまって、君の存在に気付いてしまって。
僕にとって一番大切な人の『死』に、この罪深くふやけた心は気付いてしまった。
君が一番大切にしていた『ヒト』は僕で。
僕が一番大切にしていた『ヒト』は君で。

許されるなら、君の声で。
裁かれるなら、君の瞳で。

あぁ、僕は。
今度は君に、言えるだろうか?

「愛してる」
今度は君に、言って見せるよ――必ず。

「迎えに行く」とは言わないよ。
会えなくなってしまうから。

それでもずっと待っているから。
いつかまたきっと、出会えるようにね。

だから今だけは……さよなら、だね。


——君に。
僕が贈りたかった言葉はたった……ひとつ、だけ。


ひかりのコトバ。 終
再掲元:個人サイト(閉鎖済)2001/12/24

いいなと思ったら応援しよう!

黄蝉スオウ@のんびり小説noter
読んでくださり、ありがとうございます。 スキ♡やご感想はとても励みになります、よろしければぜひお願いします。