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【小説】ピンの曲がったピアス

6年前の初夏ぐらいにあったことだと思う。

私は学部の一年生で、その日は演劇サークルの稽古が始まる前に、稽古場代わりに借りていた合宿所で過ごしていた。私の他に同期生が二人いた。

「あ、Uくん。ピアス、直せる?」

と、Cさんが訊ねていた。

CさんはピアスをUくんに差し出し、Uくんはピアスを目の高さに摘まんで点検した。

私も二人に近づいてピアスをじっと見た。

「ピンが曲がっちゃったんだよね」

Cさんはそう説明した。Uくんが「ペンチで曲げ直すか」と呟いたので、私は工具箱を探した。すると、Cさんは「あ、いいよいいよ。大丈夫」と私に手のひらを見せた。Uくんは「持って帰って直しとくよ」とピアスをしまった。

私は、この時はまだ理由が分からなかったし今でも釈然としないが、気まずい気持ちだった。ルールというか秩序というか、例えばそのような、予め他人が決めたものをうっかり踏んでしまったような恥を感じていた。

「あー、そりゃ付き合ってるな」

この出来事を話したら妹は、そう述べた。

「うちだったら絶対入れないよ。その間にさ」

「何故?」

「だってわかんじゃん。雰囲気」

ま、UくんとCさんの間柄については私にはそこまで重要じゃなくて、知りたかったのは別のこと。

私は「ピアスを直す」という問題解決に関わろうとしていた。だが、妹は、その前にUくんとCさんの関係性に注目し、距離感を保つことに比重を置くと答えた。妹は、ピアスを直す相談をUくんとCさんが睦言を交わすことのようなものと、瞬間的に捉えたのだ。

「もー、佐雪ってば恋愛の話が好きなんだからぁ」

と妹はニヤニヤした。

居心地が悪いなぁ……。私は苦笑した。そういうことになってしまうのか。

あの二人にとって、ピアスを直すって何だったんだろう?

私はどのような思考回路で関わり、それは他人とのそれとどう違うのだろう?

そういった、私が暮らすところの森羅万象を出来るだけ正確に知りたいだけだったのに。

今、大学院生になり、出会った本、アメリカの社会学者リチャード・セネットの『公共性の喪失』で、言い得て妙であることが書いてあった。そっくりそのまま覚えているわけではないので引用ではないが、よくおまじないのように呟く。

自分のことを知るのは世界を知るための手段である。自分を知ることが目的になってしまうと、感動を失うだろう。

至言であると思う。

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木勢佐雪
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