「ままならぬ男女」を描いた川島雄三監督の真意を探る 「あした来る人」
「ままならぬ男女」を描き続けたのかな、と思うわけです、川島雄三監督は。
なぜなのか。
この「あした来る人」を見て分かった気がしまして。
「飢える魂」では父ほどに歳が離れた夫を持ちながら奔放な男に惹かれていく女(南田洋子)や、亡き夫の親友に愛を打ち明けなられながら距離を置く妻(轟夕起子!)の姿を描いてましたし。
代表作「洲崎パラダイス」では、職のないうだつのあがらない恋人と連れ添いたいのに思い通りにならない女や、家庭を捨てて逃げた夫を見切ろうと思っても敵わずまた裏切られる妻の姿を描いてたわけですが。
「あした来る人」でも2組のカップルを対比しながら「ままならぬ男女」を描いてました。
自分に無関心な夫(三橋達也)よりも、電車で乗り合わせたカジカに取りつかれた学者(三國連太郎!)に心惹かれる妻を月丘夢路が演じてまして。妻の父親(山村聰)が囲っている愛人(新珠三千代!)がたまたま出会って見そめたのが、月丘夢路演じる娘の夫だったという複雑な愛憎関係を描いてまして。
50を過ぎた会社経営者の父は、別に愛人を手放したくないというほどエゴイスティックでもないし、エネルギーもない。その父親を中心に4人の若者が衝突したり、歩み寄ったり、行き違ったりするわけです。
結論としては、婚姻制度や慣習や常識に縛られず、恋焦がれる気持ち、愛していいな人とすっぱり別れようとする姿勢を、若い人たちの自由な姿として捉えているようなのです。
「あした来る人」とはつまり、自らの気持ちを最優先する若者を意味してるということで。
「不倫」「別離」「離婚」として否定的に捉えられることを、この映画では、いやもしかしたら川島雄三監督の作品では、自由の表れと位置付けているようにみえるのです。
終戦を経て、米国を媒介として根付き始めた民主主義の象徴が「自由に恋する」生き様だったのかなと。
そういえば「青い山脈」や「潮騒」、「伊豆の踊り子」など終戦直後の青春映画では、周囲から奇異に見られたり、批判されたりする男女の恋(交際?付き合い?)が物語の軸になってるし。
「あした来る人」は題名からして直球のメッセージを投げかけており、この点が評価の分かれるところかもしれませんが、川島作品を理解する上でとても重要なのかなと思ったりもして。
うう、超傑作「しとやかな獣」を見たくなってきた。