行き方には様々があり 霊の賜物にそれぞれがあり すべては神の恵みにより キリスト御自身のもとに集められ 聖霊による完全支配、聖なるひとつのからだとなるのです 今、ひとりでおり、聖なるキリストの教会の交わりに加えられた聖徒は全世界にいます 目にみえる望みは望みでありませんとは、わたしたちに宣べつたえられた福音です。福音を宣べ伝える際に、教会のために他の仕事でお金を蓄えることは可、神の国に仕えながら報酬の期待もそこにあることは二心であるため不可、二心は神に仕えていないと命じられて
たくさんのすぐれた人があり、ものを考える人たちがたくさんいます 自分より深い内奥の人たち、感性の豊かな人たちがたくさんいます 自分より人をすぐれた者としなさいという教えがどこへいったのかわからなくなってしまうことは、老化の典型であり、老人のように、もはや自分たちを置く囲いの中しかみていない状態となります。 精神的に疲れていて、自分の肉に苦しんでこのようになってしまうこととは心境が異なります。 前者はその心境に平和さえ感じているからです。 御使いのように上り下りする、というみこ
主は十字架上でもご使命をお忘れになることがなく、わたしたちに敵を愛する模範を示されました。主は彼らが周りをとりまいて騒いでいるのを見ておられました。彼らの病を知っておられたのです。医者であられる方は、彼らの精神の錯乱、精神が滅びている状態を見ておられたのです。 父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか知らないのです。主はすべてを見ておられたのです。御自分に起ころうとしている死を知っていたのです。 気をつけて。高慢は、自分を病人でなく健全、過ちの者でなく正しい者と思
悪い病により既に精神を滅ぼしている人の症状は、自分が病気であると知るよしもないこと、健全に見せかけること、医者の食卓を否定し他人の病を嘲笑うことです。 主は、病人のために来られました。 ファリサイ派は自分の信じるものを信じればよいのです。 医者が必要な人に、医者は来られるからです。 人間は、なんと多くの天の国に入れない欠陥があるでしょう。わたしも、だれもが。 人となられ、来られたキリストは、病人でない者をひとりも見出しませんでした。 人となられたイエスを否定する者は、反キリス
病気だと思っている人が創始者にすがりついている一方で 自分を健全だと思っている重篤な病理がある 不信仰とはまさにこのことであり 医者からみると、みな病人である しかし 一方は 思うままにしてください、ただ、わたしを癒してください、とすがりつき 一方は 苦痛などまっぴらさ、病気などない、自分は健全なんだから、と、治療の苦痛を拒んでいる 前者は患者であるゆえ、入院室であわれまれ、病人の特権である、新たな気持ちを得ることを赦されると同時にぶどう酒を飲むことを赦され、肉を切開する
キリストによって教会の中に入れられている幼子たちは、まだよく知識を知覚できないとしても 自分の持っているものについて知っておらず 神の霊に属するものを認識できていないとしても 神の霊を持っています 持っているものを知識によって認識することはただちに起こらないのであります しかし、そのときがくれば 認識は起こるのであります 神は御自分のものを知っておられ 人間がここがキリストのもの あそこが、など思い違えたり、決め込む必要はないのです 御自分を愛する、愛さないは 神に知ら
唯一の神の教会から離れているという大きな罪に対して悔いる心を持っていないとすれば まさにその人はそのことにより、聖霊に逆らったことばを語っています アウグスティヌスやルターなどの豊かな神の知識を差し置く者はまさに わたしたちに耳を傾けないといわれているのではないでしょうか
唯一のキリストの教会内にいる者が 悔い改めるのならば 悔い改めるものは赦される 内へ内へと、内奥に向き合い 狭いところを通ることは苦しいものです しかしルターは言います、それは長くは続かないだろう 唯一の聖なるキリストの教会を受け入れた者ならば 悔い改めるものはすべて赦されます だから、力を尽くして調べ上げ、知力を尽くして真実に照らし、思いを尽くして悔い改め、心を尽くして神を愛するだけなのです 自分をさばく者はさばかれません 主ははじめに言いました 悔い改めよ、天の
今日の悪人は明日 聖なる交わりを受け入れるかもしれない こられるまでは誰をも さばいてはいけませんと、いわれています 聖徒は、心の奥底がそのようになることを願い求めています 聖なる方を愛させていただくのだからです 不義、罪、許しも同じように 心の奥底まで神の似像となること、神に創られてゆくことを聖徒は願い求めています 自分の不義や肉のわざを認めない大きな不合理こそが致命的な、赦されることがない罪です そうしてずっと罪の意識に逆らい続けてゆくことが 許しを得られないこ
たとえばその人が自分のよい暮らしのためにだれかへ この部分をやめて欲しいと言ったとする すると相手は申し訳なかったと思うけれど 次には恨みが残る どうしてお互い様なのに、かの人は わたしのためにこの部分をやめて欲しい そうすればわたしはよりよく暮らせる、といったのか そのようなことを相手は考え どうも納得がいかない そこに対等はなかった、お互い様はなかったと判断する 信頼関係は壊れ、より関係性はひどくなる しかしはじめから信頼関係はなかったのだから より反発し合う
たとえば精神が安定していないときには 本が読みづらい 繊細な人ほどそうである 鈍い人が鈍さを誇れることはなく 繊細な人が繊細を誇れることはない ただ、戒めを守るための今日である 精神が安定しないとき 本を読めない人は 精神が安定しない原因を憎み 自分の大切なものを守ろうとして 原因として考えたものに抵抗するという罪を犯す しかし今日は、無抵抗を守るための今日である 主軸からそれることがよっぽど罪である 自分のために生きているただの人となるより 我々は戒めのために生きていれ
大切なもののために人は罪を犯す なにゆえに 自分の力で守れると思い違えるのか ここにも傲慢がある
不安になってもそれ以上の想像は悪からくるのである わたしたちは戒めを守ればそれでよいのであるから 不安になっても一日の労苦はその日一日で充分である 自分はただ、今日も無抵抗に過ごした。 それだけですべてに勝つのである わたしたちは良い暮らしのために生きているのでない 戒めを行うために生きているのだからそれがすべてである
車が大事な人がいた 近所の子供のボール遊びが気になっていた 傷つけられるのではないかと不安だったからだ どうやら平日の午後にボール遊びが行われているようであった 平日その人は電車通勤であり 車を見ていることはできない 休日になると、その人はドライブへ出かける あるとき、車に土がついていることを発見した その人は不安だったものが的中したように思った ボールが当たったのかもしれなかった 自分の車が大切だったのである 毎晩仕事帰りに車をチェックするようになった あ
その日の悪(七十七人訳)はその日一日で充分である
怒りというのは復讐の衝動(リビドー)である すべての人は怒りの子であったがその中でも不安になりやすい人間という種類がある 思い煩いというのは不安が原因で起こる 人間には、自分の苦手がある 不安を苦手とする人は思い煩いを引き起こしやすい 恐怖を苦手とする人は恐怖を感じないように 恐怖を引き起こす深淵にある種盲目を装い、危険を回避する この場合も、自分の内に危険があるのである 恐怖に入った、すなわち深淵に入り込んだ場合、恐怖に対抗することで自分自体が恐怖となってしまう このような