危なっかしい方が手伝いやすい
必死で自分がなんとかしようと思っている。でも、1人で頑張れば頑張るほど、周りはどうしようもなくなってしまう。
だから、1人では無理そうだと思うくらい危なっかしさがあった方がいいのかもしれません。
2018年8月から友人と月に一回グラレコれんしゅう会というものをやっています。かれこれ10ヶ月も経っています。昨日その会があったのですが、我ながら本当に良い会になっていると思っています。
継続していくうちに人も集まるようになりました。リピーターも新しい参加者もいるだけでなく、僕達のことをまったく知らない人が参加してくれるようになってきています。
自分の知り合いやその知り合いまでであれば、内輪な雰囲気でできますが、外からやってくる人に内輪のノリは通じません。
そういう風景に出会って、公共性の高まりをヒシヒシと感じています。
これまでは自分達で作っているという実感が強かったのですが、だんだんと自分の手を離れ、「みんなのグラレコれんしゅう会」になりつつあります。
今も主導権を握っているのは僕達でしょう。やめようと思えばいつでもやめられます。ただ、そこにはもう既に色んな「わたし」や「おれ」の想いが混じり始めています。
だから、ある日突然「やめます!」とは言えなくなってきている(現状やめるつもりもありませんが)。
今回、かつての参加者数人から欠席の連絡をいただきました。
来られないなら連絡をくれと言っているわけでもないのに、連絡をいただけることがまずありがたいです。そして、メッセージの締めの言葉で「来月は行きたいです」と添えてくるのです。
月一開催が認知されるようになってきたことで、参加者が次もあると疑わなくなってきているのです。
自分のコントロールを離れ始めているのだと思いました。
24時間営業が問題になっているコンビニにおいても、単なる売上の増減の問題だけではなく、夜間の光源として、犯罪防止に役立っているという意見がありました。それはお店からすると関係ないんですが、いつの間にか担ってしまったがゆえに、簡単に身動きが取れなくなってしまっているのだと思います。
続けていくことで、色んな人の手垢がつくようになる。
最初は僕と友人だけのまっさら綺麗だったものが徐々に薄汚れていく。でも、その汚れが誇らしい。だって、僕達が目指したかったものは、ショーケースの中で埃1つかぶらない飾り物ではなくて、使い倒されるほど良い音を出す伝統芸能の鳴物のようなものだから。
ただ、鳴物があるだけではなにも起こりません。演奏する人や舞う人を求めています。多くの人に知られるほど僕達だけでは難しくなるので、一緒にやっていける人を求めています。
コンビニが宅配便を送れるようになったり、チケットを買えるようになったりしたのは、ほかとの連携によるものです。そうやって色んな人が関わる中で、新たな機能や役割を獲得していくのでしょう。
だから、これまではしっかり握っていた手綱をもっと緩めてみようと思いました。そうしたら思いもよらぬ方向に進んでいくかもしれません。でも、本当に危なかったら、ほかの人が手綱を引いてくれることを信じています。
危なっかしいくらいの方が、助ける側も手を差し伸べやすいでしょう。