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『自分とか、ないから。』を読んで、小説の創作ということが何となく見えた件

包み隠さず言うとぶっちゃけ、私は苦しんでいる。将来への不安で胸が押しつぶされそうになって、夜中に目が覚めてしまい、ろくに眠れないことも多い。心臓の病気でないことは、雨の日以外は毎日、心拍センサーをつけて自転車に乗っているので、間違いないと思う。おそらく不安から来るストレスによる自律神経失調症なのだろう。

たまたまYouTubeを見ていたら、この本が紹介されていた。

動画作成者によれば、「劇薬」らしい。極めて頭の良い人が、極めてわかりやすく書いているので、誰でも分かった気になり、それだけで幸せになってしまうからだと言う。それの何が悪いのかというと、そうやって幸せになった人は新興宗教にハマったり、中には教祖になったりすることがあるからだそうだ。

今さら新興宗教にハマることもないし、ましてや教祖になることもなかろう。それだけは自信がある。お金があまりないので、図書館で借りることも考えたのだが、今すぐ読みたい。欲望を制御できないのが、お金がないことにつながっているのだが、Kindle版をサクッと購入してしまった。

東洋哲学に関しては多少の知識もある。特に禅については何冊も本を読み、参禅に通っていたこともある。コロナ禍で参禅会が中断になり、宗教がそんな体たらくで良いものだろうかと疑問を持ったため、再開されたが行っていない。

禅以外でも仏教には多少の知識があり、道教にも昔から興味があった。だから新しく得る知識はほとんどないと思ったのだが、「劇薬」とも言える解釈・表現はとても気になる。

要するに、救われたくて、飛びついたのであった。

前提知識はあったので、サクッと読めた。知識はほとんど増えなかったが、「なるほどこういう解釈があるのか!」と目から鱗の箇所が数多くあった。知識を得るより、ずっとありがたいことである。

お金を払った甲斐は十分あった。結果として、かなり気持ちが軽くなったのである。

正直、本代はちょっと痛いと思ったのだが、精神科や心療内科に行って、薬を出してもらえば、ちょうどこのぐらいだ。通院することになれば、いくらかかるかわからない。カウンセラーやセラピストにかかるとなれば、一声1万円ぐらい。ずいぶん安くついたことになる。

苦しみや悩みから解放されたいと思う方は、助けると思って、上のリンクから買ってください。ただ効果の保証はできませんので、自己責任でお願いいたします。東洋哲学をぜんぜん知らないと言う方には、入門書として最適と思います。まあサンプルを読んでから、決めてください。

アフリエイト記事みたいになってしまった(いや、そのものだ)が、本題はここからである。

私は小説を書くことを、どうも難しく考えていたようだ。

心を空っぽにして、世界とのつながりを感じ、受けたい・売れたいなどの邪念から自由になれば、自ずと書けるのではないだろうか。読者を想定するというよりも、読者とつながっていると考えることも重要かもしれない。

哲学入門書と小説の違いはあるが、著者のしんめいP氏も、出版が決まってから3年間まったく書けなかったのが、このような状態になったとたんにあっという間に書けたという。

スピリチュアルな話と思うかもしれない。否定はしないが、それだけではない。

たとえば今、こんな本を読んでいる。読むだけでなく、演習もやっている。つまりマジメに取り組んでいる。

『自分とか、ないから。』を読んだ後、ちょっと長い引用になるが、次の文章が何を言っているのか、すっと頭に入ってきたのである。

 欲求不満や変身願望や自己愛が肥大した結果、ヒトは本当の「私」や理想の「私」の追求に走ります。程度の差こそあれ、誰もがファンタジーとしての「私」を生きることになる。だが、それはディテールが脆弱なフィクションに過ぎず、過酷な現実には拮抗し得ない。それがわかっているから、他社との接触を拒んだり、社会とのコミットメントを避けるわけです。
 けれども、「私」は社会を映す鏡でもあります。世界の混乱は「私」の中に織り込まれるのです。現実の試練を受けて、「私」というフィクションは破綻するが、その破綻ぶりを律儀に見据え、記録するのが私小説なのです。都合の悪いことは隠蔽し、美談を捏造する自分史小説と私小説は、本来は相容れないものなのです。
 これまで小島信夫や古井由吉、笙野頼子、保坂和志らによって機能拡張が図られてきた私小説を踏襲し、「私」と「他者」の境界を見据えることができれば、それは現代文学の傑作になるでしょう。

私小説ではないのだが、しんめいP氏の『自分とか、ないから。』が傑作だとしたら、まさに彼はこの通りの軌跡をたどって、著書をものにしたからだろう。

”誰もがファンタジーとしての「私」を生きることになる。だが、それはディテールが脆弱なフィクション”という部分は、まさに『自分とか、ないから。』というタイトルと重なる。”「私」と「他者」の境界を見据える”という点に関しては、しんめいP氏(というより東洋哲学)の結論は、「境界などない、すべてがつながっている」となるが、そのように見据えたのだと捉えることができる。

大切なことは、自意識や承認欲求を捨て去る(注)こと。そして世界(宇宙)との一体感を実感すること。そうすると世の中の見え方も変わってくるし、言葉も自然と出てくるようになる。

東洋哲学というのは、くうにせよ、タオにせよ、言葉では表現できないものなのだから、「言葉が自然と出てくる」というのは、考えてみれば変な話なのだが、人間は言葉でしか理解できないから(そして空や道に限らず、日常生活においてだって不完全な理解しかできない)、空や道について書かれた本はたくさんあるというわけだ。

結局、人の心からあふれ出たものは、言葉になるしかなく、小説を創作する者は、いかに言葉をあふれ出させるかに心を砕くべきなのだろう。

そう考えると、この本で高橋源一郎氏が言いたかったことがすんなりわかるような気がするのだ。

どう言い訳しても、アフリエイト記事だw まあ、助けると思って、よろしくお願いいたします。

「自意識や承認欲求を捨て去る」というのは、煩悩を捨てて無欲になるということかもしれないが、密教では欲望を肯定することで、欲が大欲になる。

「お金をいっぱいゲットしよう」もいいけど、
「お金をいっぱいゲットして、いっぱい人をたすけよう」とでかく考える。
 するとでっかい自分、「大我」になる。
 欲のスケールをでかくすると、逆にさとりに近づく理論。

『自分とか、ないから。』

そうなると、保坂和志氏が言う”「義務感」のような妄想による高揚がなければ小説なんてなかなか書きはじめられるものではない”、”小説とはやっぱり「義務感」や「使命感」で書くもの”という言葉ともつながることになる。

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