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町田康は『宇治拾遺物語』をどう「処理」しているのか

町田康氏(以下、敬称略)の文章が好きで、というかINUの町田町蔵の歌詞から好きで、それにしても今の顔とINUの「飯喰うな!」のジャケット写真とでは同一人物とは思えないのである。

そんなことはさておき、町田康の『宇治拾遺物語』の翻訳が評判らしい。

8月29日の記事なので、もう1カ月以上前になるのだが、実は出た時点でも読んでいた。今朝、なぜかまた通知されたので、読み返したのである。

さて、これはいちおう翻訳らしい。だが町田が素直に古典の現代語訳などするはずもない。とはいえ翻案とは言っていないので、芥川龍之介の王朝物のように、筋書きや設定を変えるようなことはしていないだろう。いわゆる「超訳」というやつか。

ぎりぎり翻訳と言える範囲で、町田ならではの「処理」がなされているはずなのである。それが知りたい(処理に「」を付けているのは、もしかしたら町田さん(なぜかさん付け)が、処理という言葉を嫌がるかもしれないと思って。まあ本人が読むことはないと思うのだが、念のためだ。ファンが読むかもしれないし)。

というのは、あくまで習作として、文章修行を兼ねて古典の翻案をしたいと思っているのだが、そのために町田の処理方法を知ることは大いに役に立つはずだと思ったからだ。

分析には、Kindleのサンプル(試し読み)を使うことにした。第1話を丸々サンプルとして載せてくれているからだ。あとサンプルなら著作権の問題が発生しないだろうと思った。

Amazonカスタマーサービスの「試し読みについて」にこのような文言がある。

出版社の希望や著作権の保護のため、本の中のページや写真などが表示されないことがあります。

https://www.amazon.co.jp/gp/help/customer/display.html?nodeId=GHACQBMSMRM3LBQ4

ということは、サンプルには著作権上問題になる部分はないということではなかろうか(違っていたら、ご指摘ください。内容を吟味した上で、必要ならば対応いたします。ただ気になるのは「出版社の希望」という箇所で、作者は希望できないのかということだ)。

まずは手元に中学生のときに、最初に習った古文が『宇治拾遺物語』(今考えたら先生、けっこう攻めている)でとてもおもしろかったので買った、角川文庫の『宇治拾遺物語』がある。そこから第1話を丸々転載させてもらった(漢字は新字体にし、ルビは無くても読めるだろうものは省略した。追加したたルビもある)。大した長さではない。

巻第一
一 道命阿闍梨於和泉式部許読経五条道祖神聴聞事

 今はむかし、道命阿闍梨だうめいあざりとて伝殿ふどのの子に、色にふけりたる僧ありけり。和泉式部にかよひけり。経を目出めでたよみけり。それが和泉式部がりゆきてふしたりけるに、目さめて経を心をすましてよみけるほどに、八巻はちまきよみはてて、暁にまどろまんとする程に、人のけはひのしければ、「あれは誰ぞ。」ととひければ、「おのれは五条西洞院の辺にさぶらふ翁に候。」とこたへければ、「こは何事そ。」と道命いひければ、「この御経をこよひうけたまはりぬる事の、生々世々しゃうじゃうせぜわすれがたく候。」といひければ、道命「法華経をよみたてまつる事はつねの事也。などこよひしもいはるゝぞ。」といひければ、五条のさいいはく、「清くてよみまゐらせたまふ時は、梵天・帝釈をはじめたてまつりて、聴聞せさせ給へば、翁などはちかづきまゐりてうけ給はるにおよび候はず。こよひ御行水も候はでよみたてまつらせ給へば、梵天・帝釈もご聴聞候はぬひまにて、翁まゐりよりて、うけ給はりさぶらひぬる事のわすれがたく候也。」とのたまひけり。さればはかなくさはよみたてまつるとも、きよくてよみたてまつるべき事なり。「念仏、読経、四威儀をやぶる事なかれ。」と恵心の御房もいましめ給いにこそ。

角川文庫 中島悦次校註 宇治拾遺物語

伝殿は藤原道綱で、「光る君へ」で言えば上地雄輔が演じている、道長たちの兄弟だがちょっと頼りない平安貴族のことだ。その息子が主人公の話である。ちなみに藤原道綱母は『蜻蛉日記』の作者である。和泉式部は説明不要だろう。たぶん歴史上の人物の中では、平安時代でもっともエロい女性ではなかろうか。恵心僧都とは、『往生要集』を現した源信のこと。また四威儀とは、「行・住・坐・臥の四つの作法」のことで、戒律にかなった振る舞いのことである。

要約すると、道命阿闍梨という色狂いだが御経を読むのがむちゃくちゃうまい坊さんが、和泉式部と事に及んだ後、明け方に法華経を読み終わったら、身分の低い神様が現れてお礼を言う。普段なら梵天や帝釈といった最高身分の神様しか聞けないようなすばらしい御経なのに、今日はエッチしたあと行水もしないで読んでくれたので、私のような身分の低い神でも聞けたのでありがたいと言うのだ。御経を読むときは、やっぱりちゃんとしないといけないよ、という話である。

それだけの話なのだが、我らが町田先生は表題も入れて、原稿用紙6枚程度の2,087文字(ただし私が写経したものなので、間違いがあるかもしれない)の掌編に仕上げている。原文がタイトルを含めて507文字(これも私が写経したものなので、間違いがあるかもしれない)なので、4倍以上に膨らんでいるわけだ。

では、どこが膨らんでいるのか。全般に風景および心理の描写および説明が加えられているのは言うまでもないのだが、極端に描写および説明が加えられているのは、この箇所である。

色にふけりたる僧ありけり。和泉式部にかよひけり。経を目出めでたよみけり。

この部分が、こんなことになっている(ルビはすべて省いた)。

そのうえ、声がよく、この人が経を読むと、実にありがたく素晴らしい感じで響いた。というと、ああそうなの。よかったじゃん、やったじゃん、程度に思うかも知れないが、そんなものではなかった。じゃあどんなものかというと、それは神韻縹渺というのだろうか、もう口では言えないくらいに素晴らしく、それを聴いた人間は、この世にいながら極楽浄土にいるような心持ちになり、恍惚としてエクスタシーにいたるご婦人も少なくなかった。
 そんなことだから道命は貴族社会のご婦人の間ではスターで、道命の周囲には道命と一夜の契りを結びたいというご婦人が常時参集して、手紙や何かを送りまくっていた。
 けれども道命はお坊さんである。いくらファンのご婦人が参集して入れ食い状態だからといって、そのなかの誰かと気色の良いことをするなんてことはあるはずがない。やはりそこは戒律を守り、道心を堅固にしていきていかなければならない。のだけれども、やはりそこはなんていうか、少しくらいはいいかなあ、というか、あまり戒律を守りすぎても、逆に守りきれないというか、そこはやはり、すべてか無か、みたいな議論ではなく、もっと現実に即した戒律の解釈というものが必要、という意見も一方にあるため、道命としてもこれを無視できず、少しくらいの破戒はやむを得ないという立場をとって、必要最低限程度の範囲内で女性と遊んでいた。ただし、道命くらいに持てる僧だと、必要最低限程度といっても、その値は結構大きく、普通の人から見れば完全にエロ坊主、という域に達していた。
 そんな状況のなかで、道命が夢中になっている女性がいた。和泉式部という女性で、おそらく彼女はその頃、生きていた女のなかで最高にいい女だった。そして、ただいい女というだけではなく、そそる女だった。色気のある女だったのである。それもただの色気ではなく、壮絶なほどの色気で、彼女を見た男は貴賤を問わず頭がおかしくなり、また、ムチャクチャになった。死んだ者も少なくなかった。道命もそうで、普通であれば、ひとりの女のところに複数回通うということはなく、一回でやり捨てに捨てたが、和泉式部のところに限っては何回も通っていた。

河出文庫 町田康訳 宇治拾遺物語

ここから先は、説明も描写も加わっているが、ほとんど原典に沿っていると言っていい。

たとえばこんな感じ。

道命「法華経をよみたてまつる事はつねの事也。などこよひしもいはるゝぞ。」といひければ、

原典

道命はなにを大層なことを言っているのだ、と思い、また、ベンチャラを言っているのではないかと疑い、しかし、もし本当にそう思っているとしたら嬉しいことだ。ぜひ、本当のところを知りたい、試してみよう、と思っていった。
「別に法華経だったら普段からフツーに読んでますよ。それをこんな夜中に、しかも女の家に来てそんなことを言うのはなぜでしょうか」

町田訳

ここは心理描写を書き加えている。これだってかなり膨らんでいるが、先ほどの箇所に比べたら、至って普通な感じである。

最後に至ってはこんな感じだ。

さればはかなくさはよみたてまつるとも、きよくてよみたてまつるべき事なり。「念仏、読経、四威儀をやぶる事なかれ。」と恵心の御房もいましめ給いにこそ。

原典

という訳で、お経を読む際は、ちょと仮読みするときでも、身を浄めて読むべきである。「念仏・読経。四威儀をやぶること勿れ」と恵心僧都も言っている。

町田訳

それこそ説明が必要な箇所だったりするのだが、そんな話は誰も興味はないだろうと判断したのだろう、ほとんど原典のままである。先ほど注釈を入れた自分が何だか恥ずかしい。

町田はなぜこのような膨らませ方をしたのだろうか。それは冒頭にリンクした記事に書いてあることのためと思う。

町田:人間の本質というか、必死になにかをやっている人間って、滑稽じゃないですか。この中にも必死な人間が出てくる。例えば、「偽装入水を企てた僧侶のこと」(※)とか、「穀断の噓が顕れて逃げた聖の話」(※)とか。周りから見たらアホみたいな話ですけど、本人は必死じゃないですか。この人間の必死の面白さみたいなのは、自分も書いていきたいなっていうのはありますね。

https://realsound.jp/book/2024/08/post-1760910.html

道命が必死に何かをしているかどうかは別として、ものすごく滑稽な人間であることは確かだ。宇治拾遺物語に取り上げられている理由もそれだろう。そもそも父の藤原道綱が何となく頼りない。その道綱の子のエロ坊主ということで、当時も評判だったのだろう。すれ違うときに笑いをこらえていた人も多かったのではないか。知らんけど。

その道命について事細かく描写・説明しておくだけで、話が面白くなるのは必定である。そのために相方である和泉式部の説明・描写も十分しているわけだ。

道命の描写としては、ここなどは秀逸である。

もし本当にそう思っているとしたら嬉しいことだ。ぜひ、本当のところを知りたい、試してみよう、と思っていった

道命の小ささが表現され尽くされていると思う。モテモテなのに器が小さい――男性読者の共感を呼ぶところであろう(笑)。

これ1つしか考察していないので、何とも言えないが、翻案(超訳)の1つのパターンとしてありそうなのが以下だ。

  • 冒頭でとにかく主人公について詳しく、面白おかしく書く

  • あとは描写と説明を適宜足す

  • どうでもいいところは原典のまま丸投げしてしまう(メリハリが出る)

他に取り上げたものも参考にしつつ、とりあえずはこのパターンを踏襲して習作を書いて、文章修行に励もうかなと考えている。

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