桜吹雪とガタンゴトン
出勤するトトを送り出した後、太郎は決まってベランダに走っていく。
私に抱かれてトトが見えなくなるまで見送るためだが、
彼の目的は別にある。
我が家のベランダから見下ろせる位置を小田急線が走っている。
電車男は満員キュウキュウで新宿に向かう通勤列車を眺めたいのだ。
通過する列車を嬉し気に眺めながら「がたんごとーん」と言うのが常だが、昨日は「あめだー」と声をあげた。
線路の向こう側には、満開の桜が1本。
列車が通過するほんのひととき、大層贅沢な勢いで桜吹雪が起こる。
随分な高さまでわっと舞い上がり、ひらひら落ちる花びら。
小さな太郎の目にはその光景が視界のすべてだ。
「そうなあ、雨みたいね。さくらと言うんよ、さくら。」
「しゃ・く・ら」
徐々に縮小していく桜吹雪をじっと見つめながら、太郎がつぶやく。
初めての音を紡ぐこの唇は桜よりもっと鮮やかだ。
桜の嵐の真ん中に太郎を立たせてやりたい。
今だけの、贅沢な自然との戯れを。
そう思って、桜がたくさんある『はるのおがわプレーパーク』(代々木)に
行った。
ドロドロの土木作業を存分に出来るこの公園は私たちのお気に入り。
足を踏み入れると、この小さな敷地にこんなにと驚くほど桜が幅を利かせている。
花見を兼ねてダベッているママグループがいくつか。
話にも満開の花が咲いている模様。
太郎はいつものように、本日の現場の状態と他の作業員(子どもたち)の動きを確認したあと、大人用のシャベルを抱えるように持って、
あっちの水たまりからこっちの水たまりへと土砂を移し始めた。
太郎が土木作業に没頭しているときは、私は泥でチョコレートケーキを
作ることが多い。
この日、泥場にはまだ誰も踏み入れておらず、前日からゆっくりと水分が
抜けた滑らかな泥が私を待っていた。
太郎が黙々と「オチゴト」しているのを横目で確認しつつ、私はその
トロトロの美しい泥を撫でるように採取。
今日の泥はかなりゆるい。
落ちた花びらをトッピングして、季節限定桜のガトーショコラ。
出来上がったケーキをテーブルに置いたら、竹を持った小僧2人組が
かき混ぜにやって来たので怒る。
しばし固まっていたが、「俺もケーキつくるー」と泥を採取し始めた。
「水分大過ぎ」「もっと表面撫でるように取るの」と熱烈指導すると
面倒くさそうな顔をされたが、太郎が手をつっこんで崩した私のケーキを
彼らがとても丁寧な指使いで飾り直してくれて嬉しかった。
帰り際、そうそう桜吹雪と思って太郎を丘の上に連れていった。
トコトコと歩いて暴れん坊将軍もうらやむほど盛大に舞い散る花びらの中に進み出て、その瞬間大きく目を見開いた。
おお、いい表情だ。
どうだ、息子よ。
これぞ春だけの、今だけの、センス・オブ・ワンダー体験だ。
「ひゃー!!」
太郎は叫んだ。
「がたんごとーん!」
彼の瞳は住宅の隙間からわずかに見える電車だけを捉えていた。
またそれかい。
母にとっては電車の何がそんなに良いのか、そっちのほうがよっぽど
ワンダーだ。
がっくり来ているとまた太郎が叫んだ。
「ワンワンだー」
はいはい。
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