魅力的な主人公と嫌われる主人公――明暗を分けるのは【役割】と【期待感】
漫画、アニメ、映画、小説、舞台、などなど。さまざまな作品の登場人物の中で最重要な役割を担うのが主人公だ。
主人公が魅力的であるほど作品は読者から好かれやすいし、逆に嫌われていれば作品自体が読者から嫌われることも多い。主人公は作品の代名詞とも言える存在であることは間違いない。意図的な演出を除けば多くの作者は主人公を好かれる存在として、読者に認知してもらいたいはずだ。
だが残念なことに、作者の意図とはかけ離れて主人公が嫌われてしまうことがある。自作の主人公が好きになれない作者もいるかもしれない。
「どうしてこの主人公は人気がないんだろう」
「読者の主人公に対する反応が、自分と思っていたものと違う……」
ということが起こりえないために、どうすれば魅力的な主人公が書けるのか、基本的な部分を解説していく。
もっとも重要なのは主人公の役割を明確にさせ、それを全うさせること
デスノートの主人公、夜神 月。
・大量殺人犯
・彼女複数人持ち
・目的のためには女を平気で利用して殺す
・家族ですら目的のために利用する
夜神月が嫌いという人はゼロではない……が、彼のスペックや経歴から鑑みると、本来はもっと嫌われてもいいはずのキャラだ。だが、スペックに比例して夜神月を嫌いという人はそう多くはないように思えるし、むしろ好きという人もいるだろう。
夜神月の例から見ても、「主人公のプロフィールやスペックは、読者から嫌われる要因にはならない」ということがいえるのではないだろうか。
なぜ、このプロフィールや行動から嫌われてもおかしくない主人公が、ある程度読者に受け入れられたのか。それは「物語上の役割を全うしているから」に他ならない。
役割(role)は、読者がキャラクターに対する期待
これは物語上に限ったことではない。
例えば野球で4番打者が毎回打席に立つたびに連続三振をしていたらどうだろう。
イライラしないだろうか。では、打席に立って打てないのがピッチャーだったらどうだろうか。打てないことでガッカリはされるかもしれないが、4番打者と比べるとそこまで批判は大きくならないはずだ。
これは、4番打者に求められているのは打つことであり、ピッチャーに求められているのはそうではないからだ。
ピッチャーに求められるのは、相手の打線を抑えることだ。逆に全打席ヒットを打てても、毎試合5点も10点もボコボコ取られていたら、嫌われてしまうことは間違いない。
物語上にも、これは当てはまる。
嫌われている主人公として、新世紀エヴァンゲリオンの碇シンジを挙げてみよう。
シンジを嫌っている人の主な理由としては
・うじうじしている
・成長しない
なんて理由を挙げる人がよくいる。
これは裏を返せば、
シンジには決断して欲しかった
成長して欲しかった
という、読者の期待感を裏切った、ということだ。
シンジは打てない四番打者、ボコボコ打たれまくる投手と同じく、彼に求められた役割を全うしていなかったために嫌われた、ということになるのではないか。
シンジに求められていた役割は、「14歳という年齢で過酷な境遇に置かれ、最初は内向的だった彼が人々との出会いや戦いを通して成長し、やがて大切なものを守るために自らが決断して戦うこと」だったのではないだろうか。
しかし残念なことに、シンジは作中で成長することなく、内向的な性格のまま作品(旧劇)は終わってしまうし、新劇でも(その兆しはあったが)成長したとは言いがたい。
想像してみて欲しい。
鬼滅の刃の主人公である炭治郎が、妹を置いて鬼の前から逃げ去ってしまっていたら?
炭治郎の性格がどんなに良くても、読者から嫌われてしまうのは想像に難くない。それは炭治郎には「妹を護りながら鬼と戦う」という明確な物語上の役割が与えられているからだ。
伊藤カイジがまったくギャンブルに勝てず、ただ堕ちていくだけの話を想像してもらいたい。ただのクズでしかない。カイジには「ここ大一番のギャンブルで勝つ」という役割が与えられていて、今のところそれを全うしているからこそ、ある程度受け入れられているのである。
では、なぜ夜神月がそこまで嫌われておらず、むしろ好きという人さえいるのか。
それは「”新世界の神になる”という大義名分の元に、Lや警察組織と頭脳戦を繰り広げる」という物語上で彼に与えられた役割をこなしているからだろう。例えば夜神月の頭が悪く、警察に捕まってからも情に訴えるようなキャラだったら、彼はおそらくもっと嫌われていたのではないだろうか。
過剰な期待感・賞賛は読者が嫌う原因になる
これは、主人公が別にたいしたことはしていないのに、作中のキャラクターがやたら主人公を持ち上げたりすることだ。読者が「え、たいしたことなくね?」と思う行為を作者がやたらと持ち上げすぎると嫌われる原因になる。
これは要するに、読者の期待感を作者が作中で上げてしまい、読者が肩透かしを食らっている状態である。
また野球に例えると「今まで全打席ホームランだった打者」として紹介しているのに、普通のヒットや振り逃げで塁に出たらガッカリする人もいるだろう。
「この主人公はすごい!何かやってくれる!」という期待感を作中で高めすぎると、読者が求めるハードルが高くなり、役割を全うしたとしても満足感が得られなくなってしまう。期待・賞賛は読者の役割であり、作中のキャラクターが過剰に求めてしまうのは避けたい。
あえて嫌われる役割を担うキャラクターもいる
当然だが、あえて嫌われる役割を持ったキャラクターも存在する。それは主人公をはじめ【読者に好かれることが重要】なキャラクターを持ち上げるためだ。復讐系の話などでよく見る。復讐相手が嫌な奴じゃなかったら、相手を憎む主人公に感情移入できなくなってしまうかもしれない。(あえてそうする物語もあるが)
ここでのポイントは、作者が狙って読者の印象を操作しているのであって、「読者に好きになってもらいたいはずが、嫌われていた」という結果とは真逆という点だ。
あえてヘイトを高くしている、嫌わせようとしているキャラクターは今回のテーマには当てはまらない。このnoteはあくまで「好感度が意図せず下がってしまっている主人公」について書いている。
読者層を意識すること
国民的アニメのアンパンマンやドラえもんでさえ、嫌いという人は一定数存在する。全ての人に好かれるキャラクターなど、不可能だ。作品の知名度があがるほどそのキャラクターを嫌いな人は増えていくし、声も大きくなっていく。
なので、ある程度の割り切りは必要になってくる。
嫌われている人にも好かれる努力をするのではなく、自分の作品の読者にもっと好きになってもらう努力をすべきだ。
「作品は好きだけど主人公がいまいち」という意見についてこそ、真剣に考えなければならない。
些細な長所や短所にこだわらない
長所や短所は印象によっていくらでも変わる。それにいちいち振り回されるべきではない。そのときは長所や短所が悪いのではなく、見せ方が悪いのだ。
「短絡的」は良い印象のキャラなら「行動的」ととってもらええる。「ワガママ」は「芯が強い」、「気分屋」は「自分をしっかり持っている」といったように、短所と長所は表裏一体であり、一面に過ぎない。短所を殺すと、キャラクターの長所まで死んでしまう可能性がある。
短所を指摘された場合、根本的に短所を否定するのではなく、「どうしてそれが長所に見えないのか」を考えるべきで、それはやはり「役割を全うしていない」ということにいきくつのではないだろうか。
まとめ
もちろん、ここに書いていることが全てではない。ここに書かれている作品とはまったく違うアプローチをしている作品も、世の中にはいくらでもある。
だが、そういった作品においても読者の「主人公に対する役割と期待感」は、きちんと設定されているように思う。
主人公が物語の中で何を求められているのか、読者が何を望み、期待しているのかを考えて行けば、少なくとも「作者が魅力的に書こうとしているのに読者からは嫌われる」という現象は、ある程度防げるのではないだろうか。