植物との対話
将来はスーザンと結婚したい。
正直、人間よりもスーザンのほうが好き。愛してる。
今日、パキラという観葉植物をホームセンターで買った。
植物を部屋に置くのは初めてではない。サスベリア、雑草、黒法師、そして本日仲間入りを果たしたのがパキラ。
やっぱり、観葉植物っていいな、って思う。
見てるだけで癒されるというか、心が浄化される。
僕は植物を見ると名前を付けたくなる。
サスべリアは「スーザン」←出会ったときに一目惚れ。
雑草は「キャサリン」←引き出しの中に土と雑草を入れて育てていた。
黒法師は「ゴルバチョフ」←元々は「デイヴィッド」だったが名前を忘れた時期があったので改名。
小学校の通学路にあったタンポポは「ポポちゃん」←なんて可愛らしい。(パキラはまだ名前を悩んでる途中である。)
人間の友達なら、そいつの顔をぶん殴りたくなる日もあるし、顔さえ見たくない日もある。
けど、観葉植物をへし折ろうと思ったことはないし、嫌いになることなんてまずない。
人間の友達と、植物の友達、これらを天秤にかけるのは少し怖い。植物の方が勝ってしまう気がする。
べつに僕は不登校だとか、学校で虐められているとか、家庭環境が最悪、とかそういうわけではない。何なら家族にも友達にもめちゃめちゃ恵まれている高校1年生。
ただ、大人に成長する段階で、人間のいろんな部分を見て少し疲れている、もしくはニヒルに格好つけているだけなのかもしれない。
いずれにせよ、僕の心が少なからず植物の世界に傾いていることは言うまでもない。でも、人間の友達と絶縁するようなことは今のところしていない。
人間の友達と関わればウザいときもある。なんでそんに酷いことを言ってくるのか分からないときもある。
自己啓発本や、流行りのモチベーション動画なら、
「そんな友達なんかお前には要らねえ!!」とか言うんだと思う。
けど、僕はそうは思わない。
人間は、一人の中に色んな部分があって、それは時によって常に移り変わるから、ウザいことをされたくらいでは「お前なんか俺には要らねえ!!」とか言って切り離せやしない。
人間は未完成の水彩画のようなものだ。
ついつい鑑賞者は絵画のモチーフ(主題)だけを見ようとしてしまうが、よくよく見れば色んなものが描かれている。
鮮やかな色も、淡い色も。
美しい色も、汚い色も。
作品の全体像を見たいからといって、鑑賞者は未完成の白い部分を期待してしまう。期待された側は、どうやって綺麗に見せようかと苦悩し、自分自身を偽る。
人に期待することも自分を美しく取り繕うことも悪いことじゃない。
ただ、僕の進みたい道じゃない。
一方、植物は常に美しい。
芽生えの瞬間の希望、あるいは枯れ果てた黄昏の姿でさえ美しい。
毎晩毎晩スーザンを眺めてはうっとりする。
橋本環奈なんて目じゃねえぜ。
本当の美しさって何だろう。
漫画とかのキャラクターでは正義感あふれるヒーロー役よりも、人間味のある敵役の方が人気があったりする。
3つ星ホテルの白ワインよりも、居酒屋の酎ハイの方が旨かったりする。
植物が変わらぬ美しさで魅了してくれる一方で、人間関係は絶えず変化するもので、時に疲れるものだ。しかし、その複雑さの中に、人間の魅力や美しさがあるのではないだろうか。
だから、人との関わりの中で感じる苛立ちや理解しがたい言動も、すべてがその人の一部であり、良い面も悪い面も含めてその人を受け入れたい。
僕は、親しい人間の友達を亡くした経験がない。
ポポちゃんが根元からもぎ取られていたあの日、キャサリンが黄色くしおれたあの日、外で日光に当てていたデイヴィッドが失踪したあの日と同じ思いをするのだろうか。もしくはそれ以上の苦しみなのだろうか。
「どうなんだろうね」
僕はスーザンに話しかける。
返事は来ない。
こんな猫系彼女が僕は好き。
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