例えば、オランウータンが自民党総裁になったとするじゃん。
そのオランウータンはテレビを眺めていた。
NHKの、人種差別問題のドキュメンタリーだ。
テレビの画面の中で、リンカーンは世界に宣言した。
「人間の、人間による、人間のための政治」
ゲティスバーグ演説のあまりにも有名な一節である。リンカーンの言葉は当時の人々の奮い立たせた。
テレビの正面のオランウータンも例外ではなかった。いや、奮い立ったというよりは、憤慨したといったほうが適当かもしれない。
「人種差別を問題視しているお前が、なんで人間を優遇する趣旨の、猿種差別的な発言をするのか」と。
その瞬間、オランウータンの瞳に炎がともった。
世界征服だ。
そのためにはまずは日本から。オランウータン初の自民党総裁となり、総理大臣として日本の改革を進める、という野望だ。
前置きが長くなって申し訳ない。
ここからはチンパンジーが総理大臣となったその時、どんな事態が招かれるかを考えていきたい。
とまあ、こんな感じかな。
最悪の政治だね。
でもさ、考えてみ?
どうだろう?
オランウータンの政治も、今の人間の政治も
あんまり変わんなくね……?
ていうか、同じじゃね……?
もちろん、悪の大小の違いはあるだろう。
まだ日本語が喋れるだけで岸田首相の方がイケてる政治なのかもしれない。
それでも、オランウータンと人間の政治が本質的に同じだといえる理由は次の章で述べることにする。
政治における正しさ
政治の正しい、正しくないを線引きする基準とは何か。
それは、100年いや、1000年先の未来人の見解をどれくらいカバーできるか、である。
どんな政治、どんな思想にも一長一短がある。
その政策がプラスなのかマイナスなのか、それを現在地点で求めるのは難しい。
ここで、政治における正しさを、主観的評価(現時点での世論)と客観的評価(未来人の歴史)の2つに分けて考えようと思う。
ちょっとした有識者、あるいは有識者でなくても現行政府の政策を批判することは可能である。
SNS上に溢れかえった政治批判など、形のないプロパガンダを、ここでは「主観的評価」と呼ぶ。
一方、時が経ち全く新しい政治が台頭するようになった時、「客観的評価」が生まれる。歴史上の人物の行動に対し、教科書上で過度に美化したり、過度に批判したりすることはない。ファシズムに関しても、教科書にはただ文字だけが淡々と記載されている。
前述した通り、政治における正しさとは後者の「客観的評価」によって位置付けられる。
黄昏の時代
SNS上で政治批判、外国人アンチ、陰謀論があたかも真っ当な顔をして我々の脳みそを襲う。
そんなもの、無視しろ。
テレビに出演する政治家たち、阿保みたいな有名人らの名言やエゴが、私たちの思考法を洗脳していく。
そんなもの、無視しろ。
全ての「主観的評価」は、たった一行の「客観的評価」に敗北する。
その上で、周囲から投げつけられた「主観的評価」によって自分自身が形成されていることを認めろ。
自分自身の口から出てくる言葉が全て「主観的評価」にしかなり合えない惨めさを認めろ。
現代人は頭がお堅いようだ。インターネットの発達に伴う情報伝播の加速によって「主観的評価」が影響力を持ちすぎているからかもしれない。
いっそのこと全人類が絶滅して、新たな生物が文明を築くくらいしなければ21世紀の政治に対する「主観的評価」は「客観的評価」に昇華しないのかもしれない。
だから、僕は檻の中のオランウータンに石破さん以上のものを感じずにはいられない。
結局我々は衣服を纏った無知な猿。
無知な猿なんだ。
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