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『ガンパウダー・ミルクシェイク』は外連とギャグの見本市

「更年期版の『355』」かと思いきや、あにはからんや、『グロリア』をひとつまみ入れた「シスターフッド版『ジョン・ウィック』」だったという感じか。
 ヒロイン(カレン・ギラン)とその母(レナ・ヘディ)、母の友人たち(アンジェラ・バセット、ミシェル・ヨー、カーラ・グギーノ)といった主要な登場人物は全員殺し屋。
 その彼女らが、群れをなして襲ってくる組織の刺客たちをばったばったと倒していくという、B級映画の魅力満載のアクション・フェミニスト・コメディだ。

 新鋭のナヴォット・パプシャド監督は、ありとあらゆる外連(けれん)やギャグをぶちこんで、観客サービスにこれ尽くす。
 たとえばヒロインのサムは、序盤こそダッサいロングコートと時代遅れの帽子で登場するものの、早々に敵対するギャングに脅迫され、ボウリング・ジャケットに着替えさせられるんだよね。
 着替えさせたからには何か理由があるんだろうと思って見ていても、そんな事情の説明もあらばこそ、ギャングは同士討ちしてとっとと死ぬ。
 たぶんパプシャド監督にしてみれば、ヒロインをカッコよく見せるためにサナギから蝶に脱皮させただけの話で、物語的必然性なんて別にどうでもいいことだったのだろう。

 サムが怪しげな医者から「両腕がマヒする薬」なんぞを注射されるのもまた同じ。口はちゃんと回っているし、足は跳んだり跳ねたりできるのに、腕だけ動かなくなる薬なんてあるわけないが、そこを真面目に批判するのは野暮ってものだ。
 自力では腕を上げられないサムが、体を回転させた遠心力で腕を持ち上げ、ギャングを銃撃していくバカバカしさを存分に楽しめば、それでいい。
「おいおい、腕はマヒしてるのに、なんで引き金を引けるんだよ」などとツッコミを入れたりしながらね。

 中盤の山場となるのはバセットとヨーとグギーノが営む図書館での死闘だが、敵も味方も銃器をしこたま携えているというのに、ただの銃撃戦では終わらない。斧やチェーンを使ったエグい白兵戦が随所に混ぜこまれる(おかげでPG12と相成った)。
 これまた物語的には必然性に欠けるが、映画的にはブラボーだ。世の中には「物語的必然性は満たしているけど、映画的な面白さのない」作品や、「物語的必然性が欠けているために、映画的に面白くない」作品も数多い。今さら言うのも何だけど、映画作りってさじ加減が本当に難しいんだよね。

 しかも各作品がどの範疇に含まれるかは、絶対的な神の基準があるわけではなく、見る人それぞれの感性や映画体験、センス・オブ・ユーモアの度合いで決まるので、話はなおさら厄介だ。
 早い話、本作を「物語的必然性が欠けているために、映画的に面白くない」作品に分類する向きも間違いなく存在すると思われ・・・。

 冒頭で更年期と茶化したが、バセットもヨーもグギーノもヘディも、アクション作品では実績十分の女優たち。キレのある動きで男どもを次から次へと地獄に送る。
 これは意図したかどうか定かではないが、黒人、白人、アジア系と人種バランスも完璧ですね。修羅場の渦中にヨーとグギーノに何事かささやきを交わさせることで、2人の性的な関係をほんのりにおわせるサービス精神も心憎い。

 彼女たちの図書館の、博物館かこじゃれた水族館と見まがうような内装デザインがまたサイコー。分厚い本を開けば、くり抜いたページに銃器が収納されている。
 蔵書はすべてエミリー・ブロンテ、ジェーン・オースティン、アガサ・クリスティといった女流作家の本だけらしき点も、いかにもシスターフッド映画然としていて、ニンマリさせられるではないか。

 この図書館ばかりではなく、殺し屋専科のクリニックやダイナーが次々と出てくるのは、明らかに『ジョン・ウィック』の影響だろう。迎えるウェイトレスやナースも手慣れたもので、入り口で、顔色一つ変えずに殺し屋たちの銃を預かる。
 ダイナーでの最終決戦で、長い通路沿いにカメラを横にパンさせながら、女殺し屋たちの暴れぶりを順次フレームに出し入れしていくカットなどは、さながら昔の絵巻物。
 登場人物が聴くカーラジオや携帯端末の曲が、そのままシーンの状況やキャラの心情にぴったりハマった劇中曲となる演出も心憎い。
 監督、俳優陣はもちろん、脚本、撮影、衣装、セットデザイン、音楽などの主要部門が軒並み一流の仕事をした、これは極めて贅沢なB級映画なのであった。

ガンパウダー・ミルクシェイク
GUNPOWDER MILKSHAKE
(2021年、仏=独=米、字幕:佐藤恵子)

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