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「ミセス・ハリス、パリへ行く」でレトロを楽しむ

 2022年11月に同名の新作映画が公開予定なので、その原作本を予習した。
 1950年代、ひょんなことからディオールのドレスに魅せられたロンドンの貧しい家政婦が、「しぶちん」をして大金を貯め、勇躍パリに渡航するのだったが・・・。
 分不相応の大望を抱いたヒロイン、ハリスおばさんの行動力と明るさが魅力。何度障害にぶち当たっても決して屈せず、自分のできる範囲のことを懸命かつ賢明に積み上げ、着実に夢に近づいていく姿が、ユーモラスにして爽快だ。
 それに感化された周囲の人々までが、我知らずハリスおばさんに善意を示し、天からの返礼のようにそれぞれの幸せをつかんでいく顛末も胸を打つ。

 ・・・と、まあ、本書の推しポイントを少ない字数で語るならこんな感じになるだろうが、ポール・ギャリコによって1958年に書かれ、亀山龍樹氏による邦訳が1967年に出されたこの小説には、アラ還の翻訳者の私にとって、それとは別の、意外な読みどころがあった。
 何かと言えば、それは当時の社会情勢や価値観、そして訳文の「古臭さ」なんですね。変な言い方だが、あまりのレトロぶりに、逆に新鮮さを覚えたほどだ。

<事物のレトロ>
 たとえばの話、現代のギャルが冒頭のあらすじを読んだなら、「別にパリまで行かなくても、ロンドンのデパートかブティックで買えばいいじゃん」と思うだろう。
 ところが当時の高級メゾンは、チェーン展開するどころか、本社にさえ商品を陳列していなかったらしい。代わりに、えり抜きの富裕層を社内に招いては、モデルやランウェイを使うけっこう本格的なファッションショーを催し、そこで目に留まった服を注文してもらっていた様子。
 私のようなファッション音痴でもパリコレのような大々的なコレクションのことは時に見聞するが、その原型がこんなところにあったとはついぞ知らなかった。
 それ以外にも、英国外に持ち出せるお金が最大10ポンドまでに制限されていたり、「パリ行きの大きな旅客機」の乗客がたった30人だったりといった豆知識を出だしから与えられ、現代の読者はたびたび「へー!」と感嘆することになる。

<ジェンダー観のレトロ>
 物語を貫く価値観も、まあ、古いったらありゃしない。もちろん時代や洋の東西を問わない人類普遍の価値観も描かれてはいるけれど、特にジェンダーに関わるそれはカビ臭ささえ感じるほどだ。
 その象徴たる登場人物がトップ・ファッションモデルのナターシャで、彼女の望みはキャリアを極めることでもなければ、玉の輿に乗ることでさえなく、平凡で実直な男性と結婚し、たくさんの子どもを設けること!(もちろん作者はそれを彼女の美徳として描いており、同時代の読者はおそらくそれに共感したわけだ)。
 巻末の解説(町山智浩氏)によれば、本書は「オート・クチュールの全盛期の最後」を描いたものだそうだけど、同時にそれは「女性が自立を夢見ない時代の最後」を意味しているのかもしれないね。
 70年代が到来した時、本書とナターシャがウーマンリブの闘士たちからどれほどの攻撃を受けたかは、想像に難くない。
 この晩秋に公開の新作映画では、さすがにナターシャを原作そのままにはできないだろう。なにせディズニーのプリンセスたちまでもが自立心に目覚める時代なのだ。アンソニー・ファビアン監督がこの点をどのように料理しているかに注目だ。

<訳語のレトロ>
 亀山氏による訳語や訳文も実に古い。いや、これは別に批判ではなく、初版から半世紀以上たっているのだから、生き物である言葉が古びてしまうのは、むしろ当然なんですね。
 古典の新訳がブーム化しているかに見える昨今だが、新作映画の公開に合わせて本書の新版を出す角川文庫は、何らかの事情または判断により新訳を付け直さなかった(加筆・修正はしたとのことだが)。その戦略の当否は別にして、アラ還の私にとっては懐かしさを感じる一冊になったのは確かだ。
 もう、個々の単語レベルから地の文の言い回しまで、私が小学生の頃に読んだ本はこうだったよなと思わせる点の連続。おまけに会話文の中では、ハリスおばさんは「~でござんすよ」という言い方を連発する。
 そう、昭和40年代ぐらいまでは、小説の中のご婦人――たとえば「若草物語」のお母さん――は、ごく普通にこういう話し方をしていたのだった(まあ、さすがに身近にいる中年女性の口からは聞かなかったけどね。文学と現実の間には、常に一定のギャップがある)。

 実は私の手がける映像翻訳の案件でも、時代設定の古い作品内には、まれに「~でござんすよ」としゃべらせたくなるような女性キャラが登場するんだよね。
 でも字幕にせよ吹替にせよ、本当にそんなセリフを書いて納品したら、昭和の児童文学など読んだことのない若いチェッカーさんたちに「江戸時代じゃないんだから」とたちまち直しを入れられることだろう。
 いや、それだけならまだしも、ヘタをすれば痴呆を疑われちゃうかもしれないでござんすね。

「ミセス・ハリス、パリへ行く」
ポール・ギャリコ【著】
亀山龍樹【訳】
(角川文庫)

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