ウェス・アンダーソンが『フレンチ・ディスパッチ』に詰めこんだ仕掛けを堪能し尽くす
フランス人女優ってスゴいよなあ。芸術性だの必然性だのと小うるさいことを言わずに、こんな映画であっさり脱いじゃうんですねえ。
あ、「こんな映画」というのは「レア・セドゥほどの有名女優がわざわざヘアヌードを見せるようなジャンルの映画かよ(笑)」という意味であり、作品自体の価値をおとしめるものではありません。
ウェス・アンダーソン監督ってば、この108分間の中に数え切れないぐらいの実験や遊びや仕掛けをぶちこんでいますよね。
彼一流の凝りに凝った画面構成は言うに及ばず、アニメを織り交ぜ、モノクロ、カラー、パートカラーを自在に切り替え、画面のアスペクト比もめまぐるしく差し替える(スタンダード・サイズの画面では出す位置まで中央、右、左とばんばん動かす)。
色彩が変わればさすがにその効果もわかるけど、アスペクト比の変更意図など汲み取っていたら今度はストーリーやセリフが頭に入らなくなってしまうので、それは後日、録画で見返すしかない。
中でも面白く感じたのは、随所に差し挟まれていた一見スチール写真のようなショット。雑誌の掲載写真をイメージしているのだろうが、よくよく見れば写っている人物が動いているわけですよ。
それにもかかわらず、宙を飛んでいる(ように見える)物体は、進行方向に飛び続けることも、重力で落下することもなく止まっている。監督、ヘンテコすぎます。
ただ、盛りこみたい要素があまりに多すぎたのか、複数のパートに分割された物語は、それぞれに味はあったものの深みには欠けた。
近作の「犬ケ島」や「ブダペスト」や「ムーンライズ」には、それぞれにエモーショナルな見せ場があったんだけどね。
このところのアンダーソン作品は、1つ1つのカットに盛り込まれる情報も増加の一途。画面の隅々にまで目を配らなければならないので、うっかりすると字幕が読み切れなくなってしまう(翻訳の石田泰子さんだけの責任ではありません)。寝不足の日に見ることは避けたいですね。
かてて加えて、今作は「(かなり知的な文体の)雑誌記事を記者が読み上げる」という体裁のモノローグが多く、それらは当然書き言葉だから、話し言葉のダイアログに比べて、ますます頭に入りにくい。
最近増えているという字幕版の苦手な若者たちは、冒頭のアンジェリカ・ヒューストンのナレーションだけでお手上げになってしまったかも。
アンダーソン作品のまた別の特徴は、一作ごとに特定の(それでいて架空の)年代と場所(たとえば近未来の日本、30年代の中欧、60年代のニューイングランド地方の島など)を選定し、監督ならではの色に染め上げた世界観を作っているところ。
今作ではインターネットが登場する以前の、すなわち紙の雑誌や学生運動が元気だった頃のフランスを懐旧する形になった。
ゆえに基本は英語作品なのだけど、ここぞという場面でフランス語のセリフが紛れこむわけです。その象徴と言えるのが処刑室のシーンのレア・セドゥで、何やらドラマチックな長ゼリフを語り、観客をエキゾチシズムという名の煙に巻く。
字幕を見ればたいした内容のセリフじゃないんだけど、フランス語で語られると妙に哲学的に聞こえるのはなぜ?
フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊
THE FRENCH DISPATCH OF THE LIBERTY, KANSAS EVENING SUN
(2021年、米、字幕:石田泰子)