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正義襲来

私は子供のころ、どちらかと言えば悪者であった。
悪者と聞くと、なにか不良行為をしでかしたとか、誰かの上に立って人を馬鹿にするような言動を吐いたりだとかを想像すると思うが、決してそういうことではない。
私はいじめられていた。
その事実を振り返れば、それは正義によって理不尽に仕立て上げられた悪者だったと言える。

正義のヒーローと世界を滅ぼす悪者という、「勧善懲悪」は昔から誰もが夢焦がれたものである。
だが、私はふと思う。
この現実世界には、超能力を使う正義のヒーローなどはおらず、また一撃で世界を破滅させる怪物じみた悪者も存在しない。
正義と悪の指標が存在しないこの現実世界において、私たちはいったい何をもって正義と悪を判別しているのだろうか。
答えは簡単である。多数決だ。

多数決というのは、何か決めごとを選択する際に用いられるだけではない。
空気を支配する、見えぬ抑圧とでもいうべきなのだろうか。
例えば、私がいじめられていた時の話をしよう。
私は、子供のころから太っていて、根暗で、泣き虫な子供であった。
それは覆ることのない事実であって、今でなお、その陰は私の後ろに尾を引いている。
だが、それらは言い方の問題であって、体格が良く、寡黙で、感性が豊かだとも言える。
ようは、周りの人たちからの見方によって変わってしまうのだ。
不幸にも私は前者のネガティブイメージを過半数集めてしまい、「弱者」として認定され、挙句の果てに正義の糧である「悪者」となったのだ。

正義というのは必ずしも、悪を倒すだけに存在するのではない。
正義とは聴衆をまとめあげ、共感されるという側面を持つ。

私の敵は、いつもクラスの人気者であった。
私からすれば、「弱者が悪の指導者に立ち向かう」という正義であったが、相手からすれば、「聴衆に混じる異分子(デブの根暗)を突く」という正義に他ならなかった。
そうすることで、クラスは一致団結し、共通の敵を作ることが出来たのだ。
実に都合のいい話である。
当然、私の力など及ぶはずもなく、結果は散々なまでであった。

正義と阿保は紙一重にある。
見栄えは良いのかもしれないが、大抵の正義は中身がスカスカなものだ。
正義を名乗りたいのなら、ありったけの知識と情報をかき集め、肉体から血を流す覚悟ぐらい持たなきゃいけない。
だからこそ、私は決して正義の味方にはなれない。
それほどまでの重圧を持てる超人など、この世界に一握りしかいないのだ。

この世界にはどれだけの阿呆の正義が溢れているだろうか。
本当に目を覆いたくなるほどである。
学校にも職場にも、ネットにも家庭にも。
そのどれもが、自分自身がただただ目立ちたいだけの木偶の坊であることに気づくことが出来ないのだ。
実に、喜劇である。

正義襲来。
なんと滑稽な言葉だろうか。
そんな喜劇に、私は万雷の拍手を送ろうではないか。
弱者と悪者を判別できない正義など、襲来という言葉がお似合いなのだ。

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静 霧一/小説
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