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【短編小説】んもれ

ったく、なんで俺がこんな目に合わなきゃいかんのだ。
つくづく不幸なことばかりじゃねぇか。
俺はなんもやってねぇって言っているのに、どうしてこんな小汚ねぇ牢屋にいれられなきゃなんねぇんだ。
それもこれも、全部あの頭のおかしな野郎のせいじゃないか。

「おいおい、お前さんは何犯だい?」
俺の目の前にいる男が話しかけてきた。
壁にもたれかかりながら片足を伸ばしてどっしりと床に座り、にやっと笑う口には、前歯がない。
前歯がない奴には碌なやつがいない。
俺の人生の直感とやらが、けたたましいほどに警笛を鳴らしている。
「俺は何犯でもない、一緒にするな」
顔合わせぬよう、目線を逸らす。
が、その視界の端で、相変わらず前歯のない口を半開きにしてにやにやと笑う男の顔が見える。
「へへへ、俺はもう二十三犯さ。ここからちょっと先の梓通りがあるだろう?あそこにある八百屋の野菜がいつも美味そうでなぁ。いつも誘ってくるんだ。”食べてくれ、食べてくれ”ってな。それでな、つい手が伸びちまってなぁ」
聞いてもないのに男はしゃべり始める。
抜けた前歯の部分からは、男が呼吸するたびにひゅーひゅーと音を鳴らしている。
こいつはどう考えても病気だ。
なおさら、関わらない方がいいと確信をした。
その様子に、思わず心からの「はぁ」という溜息が漏れ出た。

俺は何犯でもない。
それもこれも、あの丸刈り男のせいだ。
いつもの古本屋で立ち読みしてたら、あいつはふらっと現れやがったんだ。
本棚を眺めてうろちょろするだけで、本を買う素振りもなければ、読む素振りもない。
ああいうやつは、目の端をちょこまかと飛ぶコバエみたいなやつで、何もせずとも鬱陶しい。
そいつは俺の隣に来ると、おもむろに本棚から一冊の画集を取り出し、それを読み込み始めた。
あぁ、ようやく静かになったかと思ったが、やつはそれで終わらなかった。
本は読んだら、本棚に戻す。そんなのはちんちくりのがきんちょでもわかることだ。
それをどうだ、やつは本をそのまま床の上に置き、あろうことかまた別の本を棚から取り出した。
次に取り出す本はもはやぺらぺら捲るだけで、読むことすらしていない。
あげくあれやこれやと本を出して、それをひたすらに山積みにしていった。
おいおい、なにやってんだ。
俺は見て見ぬふりをしていたが、やつは本を山積みにするのをやめない。
ちょうど本棚の一部が空になったところで、やつは本を積むのを止めた。
やつはそれをなんだか嬉しそうな顔で眺めている。
まるでその顔は、ようやく出来上がった砂の城を眺める子供のような表情だった。
何がしたいんだと思っていた矢先、ふいに着物の袂から黄色い何かを取り出した。
あれは―――檸檬だ。
だがそんなもので何をする?
俺は悶々としながら、目線を本からやつのその檸檬へと移す。
やつはじっと檸檬を眺め、何かを思いついたかという表情を浮かべると、その檸檬を山積みになった本の上へとドンと置いた。
やつは檸檬を置くと、それで満足したようで、鼻歌を歌いながら古本屋を出ていった。

おいおい何やってんだ、どこへ行く。
こういう時に限ってタイミングというのは、最悪を招く。
店主がぬっと顔を出して、俺の様子を見る。
目の動きは俺から本棚へ移り、そして床へと行く。
「おい、てめぇ。何やってやがる」
いつもは寡黙な店主が、ブチ切れている。
それもそうだ、大切な商品が床の上に山積みにされて、その上に檸檬まで置かれているんだ。
怒るに決まっている。
俺は店の外へとつまみ出され、公然の面前でああだこうだと怒鳴られる。
あれは俺じゃないと言っても、店主は聞く耳すら持っちゃくれない。
そのうち、その騒ぎを聞きつけた警官が俺を愉快犯だと決めつけしょっぴいたのが事の経緯だ。

俺は誠実に生きてきたつもりだ。
父親が厳しかった子供のころから、嘘はだめだと教えられてきた。
馬鹿正直に生き続けて、もめ事を起こさず、ただ平穏だけを愛して生きてきた。
留置所にぶち込まれるなんて、俺の人生の中の汚点だ。

そうだ、全てはあの檸檬のせいだ。
いや、あれは檸檬なんかじゃない。
檸檬の形をした爆弾だ―――

「おい、お前。出ていいぞ」
警官の一人が、留置所の牢屋の鍵を開ける。
俺の疑いは晴れて、ようやく外へと出ることが出来た。
丸一日だ。
もう何年も外に出なかったときのように、青空の下はすがすがしい。
道を歩いていると、ふいにどこからかいい匂いが漂い始め、俺の腹がぎゅうっと鳴った。
その香りに誘われたところ、その場所は一軒のうどん屋であった。
俺はすかさずがま口の財布を開ける。
中からチャリンと寂しい音がし、手のひらに出してみると五銭ほど小銭が出てきた。
うどんは一杯二銭だから、腹は満たせるだろう。
俺は暖簾をくぐり、うどんをいっぱいと、はんぺんの天ぷらを注文した。
これでしめて二銭五厘。
財布は寂しいが、今はこれで十分だ。
俺が席でうどんをすすっていると、向かいに誰かが座った。
こんなに席は空いているのに、なぜ俺の目の前に座るんだ?
俺はうどんを食べるのをやめ、目の前のやつをみる。

そこには、例の檸檬をおいた丸刈りのやつがいた。
俺は驚いたあまり、うどんが器官へと入り込みそうになり、思わず咽てしまい、水をたらふく飲んだ。
「どうしたってんだい、そんなに驚いて」
やつはけらけらと笑いながら割り箸を割り、うどんをすすり始めた。
「お、お前!こないだ檸檬置いてっただろう!俺はひどい目にあったんだぞ!」
俺は唾を飛ばしながら叫ぶ。
周りの客がざわざわとしはじめ、店主が俺に睨みをきかす。
「まぁまぁ、落ち着いてくれって。俺の話を聞いてくれよ」
俺はやつになだめられた。
屈辱ではあったが、溜まっていたフラストレーションが爆発し、それが徐々に冷えていったもんだから、心は平穏へと戻っていっていた。
「俺はな、こう見えても小説を書いているんだ。お前さんも本屋で立ち読みするぐらいだ。小説の一つや二つ読むだろう?」
「あ、あぁ……」
「それでな、俺は最近文芸誌で佳作を取ってな、本が出版されるんだよ。どうだ?俺はこれから羽ばたく小説家の卵ってわけだ。それでだ。こないだはお前さんに迷惑をかけたのは申し訳ないと思っている。どうも小説の執筆で煮詰まっていてな。だからよ、これでどうだ?」
やつは着物の裾から紙きれを一枚取り出す。
そしてそこにぐちゃぐちゃっと鉛筆でサインのようなものを書き、それを俺に渡した。
「なんだこれ?」
「サインだよサイン。未来の小切手みたいなもんさ。俺が有名になってみろ、たちまちにそのサインは値上がりして、それが一攫千金の紙切れになる。迷惑料だ、受け取ってくれ」
やつはそういうと、そそくさとうどんを平らげ、席を立った。
「お、おい」
俺はやつを呼び止める。
「なんだい?」
やつは動きを止めた。
「お前の名前は?」
そして少しの間が空き、やつは口を動かした。
「基次郎。梶井 基次郎ってんだ。じゃあな」
やつはそれだけいうと、そそくさと店を出ていってしまった。

変わったやつだ。
小説家というのは、みんなあんな風変わりなやつらばっかりなのだろうか。
それでもまぁ、小説家からサインをもらえたのは幸運だ。
俺はそのサインを失くさぬよう着物の裾へとしまう。
お会計の金を鳴らすと、店主が精算を始めた。
「しめて、五銭だ」
店主は何食わぬ顔で、金額を要求する。
「え?五銭?俺はうどんとはんぺん天ぷらしか食べていないぞ」
俺は何かの間違いじゃないかと訴える。
「いや、五銭だ。あの丸刈り男が"あいつが払ってくれるから"と言っていたぞ」
店主は俺を睨んだ。
あの野郎。
俺の目の前に座ったのはタダ飯を食うためか。
許さんぞ。
俺の中にマグマのような怒りが吹きあがったが、なぜだかふっと口角が上がった。
この世には憎めないやつもいるもんだな。
俺は仕方なく五銭を支払い店を出ると、空に向かって「糞野郎」と叫んだ。

その後、「檸檬」という作品が発表されたのは、何年も後のことである。

おわり。


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静 霧一/小説
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