エッセイ『彷徨えるオリジナリティ』
物語を書いていると、ふと思うことがある。
「本当にこれは私が考えた物語なの?」と。
もう、何百年も前から物語は存在する。
歴史上のありとあらゆる人物が、筆に手を取り、数千万、数億万という物語を書いている。
世に出ていないだけで、ノートの切れ端に書いた落書きの物語も含めれば、それはもう数え切れないほどの膨大な数だろう。
文化は発展し、価値観も多様化した現代。
あろうことか、物語は飽和し、少しだけ角度を変えた物、つまり「どこかで見たことがある」物語ばかりが巷に溢れている。
何を書こうとも、「〇〇に似ているよね」だの、「二番煎じ」だの、「オリジナリティがない」だのと批判ばかりの声が聞こえる。
それではと、暴力的な創造力で物語を書こうものなら、「作者は頭が悪い」だの、「論理が破綻している」だの、「自己満だ」だのと言われる始末だ。
いったい、「オリジナリティ」はどこへ行ってしまったのだろうか。
ここで面白い話を一つしよう。
マルセル・デュシャンという芸術家の話だ。
画家として大成をしていた彼は、絵画というものに限界を感じていた。
いかにして、人間の感性を揺さぶる作品が作れるのか。
そう考えた末に発表されたのが『泉』である。
これは世界に芸術の概念を打ち砕く衝撃をもたらした作品だ。
なんたって、男性用小便器に"R.Mutt"と署名しただけなのだ。
これのどこが芸術なのだろうかと思うだろう。
考えるべきはそこだ。
この作品によって「レディメイド」と呼ばれる概念が生まれた。
レディメイドとは"既製品"という意味である。
この作品は、日常的に使う便器を日常という枠から切り離し、新しい視点を持って美術館へと飾られた。
「思考を楽しむ芸術」という概念が創出されたのだ。
今、こうして便器のことを必死に調べているのも、その思考の芸術にはまっていると思うと非常に滑稽である。
さて、このことから言えるのは、オリジナリティを創るというのは、離れ離れに落ちたパーツを繋ぎ合わせる行為ではないかということだ。
白紙の前にオリジナリティがないと悩んでいるそこの君。
是非とも、今机の上にあるものから見て欲しい。
ティッシュに、家の鍵、飲みかけのコーヒー、未開封のお知らせ、読みかけの小説……。
それらを掛け合わせて、ショートな物語を生んでみてはどうだろうか。
私だったら……そうだな、『飲みかけのコーヒーに家の鍵を落としたら、泉の精霊が金と銀の鍵の選択を迫る話』でも書いてしまうだろう。
アイデアとは海の底に沈んでいるのではなく、案外目の届く範囲に転がっているものだ。
そしてそこに、君なりの理屈と考えを混ぜ込むのだ。
それこそが『オリジナリティ』だ。
君の彷徨ってたオリジナリティの尻尾ぐらいは掴めただろうか。
もっとわからなくなった?
なんとまぁ、オリジナリティとは実に逃げ足の速い奴だ。
さて、この話にオリジナリティはあっただろうか?
どこかで聞いたことのあるような話だと思ったとしたら……
私もまだまだ努力不足なようだ。
さてさて、彷徨えるオリジナリティを掴む物語の執筆に戻るとしよう。
ではでは。