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【ショートショート】オフィーリアの花冠


 指先で白い胡蝶蘭の花びらのふちをなぞる。
 柔らかに見えるその花びらも、中には葉脈がしっかりと通っていて、弾力がありながらも決して折れ曲がることはない強さを感じた。

 実際、胡蝶蘭という花は花びらが肉厚で、そうそう破れたり、折れ曲がったりするものではない。

 意外にも、胡蝶蘭の弱さというのは幹と花びらを繋ぐ茎の部分にあった。
 贈答用の胡蝶蘭の持ち運びというのは繊細な作業で、ぞんざいにしてはいけない。茎は立派に見えても、簡単にポキンと折れてしまい、白い袋を開けた時には、一房二房と散ってしまうのだ。

 そんな胡蝶蘭に私は惹かれた。
 儚い美しさというべきだろうか。

 花の死とは、萎れ、枯れ、そして散っていくものだが、胡蝶蘭は萎れる前にボトリと落ちる。

『―――美しいままに死んでいく』
 そんな胡蝶蘭の花びらに永遠の美のようなものを感じていた。

 ◆

 私が胡蝶蘭と出会ったのは大学生の頃。
 駅前の花屋でのバイトがきっかけであった。

 特別花が好きだったわけではないが、ふとその花屋の前を通った時に、店頭に置かれた胡蝶蘭に一目惚れしたのだ。花屋から香る甘い香りが私を包み、おいでおいでと手招きをされたようにも見え、ひらひらとその蜜に誘われる蝶のように、その花屋の求人に応募していた。

 花の知識がなかったために、花の種類から管理方法など一から勉強するのはとても苦労したが、不思議とその努力から逃げようとはしなかった。
 おかげで1年もすれば、後輩に教えられるほどになり、いつの間にかバイトリーダーにもなっていた。

 大学3年生時でほとんどの単位を取り終えてしまった私は、もはや就活かバイトしかすることがなくなっていた。
 とくに就職先もここに行きたいという希望があったわけではないので、焦ってもいない。
 ただ淡々と過ぎるモノクロの日常に、花屋のバイトだけが私の日々に彩りを与えていた。

 そんなころ、私は一人の客が気になっていた。
 着なれないスーツを着て、少しだけ結び目が雑な青いネクタイをした、黒髪の青年であった。

 見た目から推察するに、それは多分入社したての社会人だろうか。
 目をきょろきょろと動かし、挙動不審になりながら、ゆっくりと花を見ていく。
 そしてタイミングを見計らったようにして、私に話しかけてきた。

「花束を作ってほしいのですが……」
 少しだけ震える口調に、慣れない目線。
 彼はきっと初めて花屋なのだろうと私は感じた。

「ありがとうございます。どんな花束に致しますか?」
「友人が入院中で、そのお見舞いに作ってほしいんです」

 なんて微笑ましいのだろうか。
 私は思わず、友人思いの青年にとびきりの花束を作ってあげようと奮起した。

 これが私にとって、初めて彼に作ってあげた花束であった。
 イエローのバラにオレンジのガーベラ、ホワイトのトルコキキョウにグリーンのカーネーションを織り込んだ小さな花束を作り、それは彼に渡してあげた。

 彼はその花束を受け取った瞬間、なんども「ありがとうございます」と頭を下げ、お店を手で行く際は満面な笑みを浮かべていた。
 そんな印象的な青年であったためか、私の記憶にそれは強く張り付き、ついには夢にまで現れる始末であった、

 たった一度だけのことだ。
 そんな風に考えていたが、一週間後の同じ曜日に彼はまた現れた。
 私を見つけるなり、よそよそしく声をかけ、「お見舞い用に」と花束を注文した。

「先週と同じ感じで大丈夫ですか?」と聞くと、「大丈夫です。すごく喜んでいました!」と可愛い笑顔を浮かべた。
 その笑顔に思わず私は心臓を掴まれるように、不意に「きゅん」としてしまった。
 この歳で「きゅん」だなんて、恥ずかしくて口には出せないが、言語化するとすればそれが一番近い言葉になるのかもしれない。

 私は顔を赤くしながら、一生懸命に花束を作った。
 ピンクのバラにイエローのガーベラ、ホワイトのシンビジウムを盛り込んでみたが、この花束も彼はたいそう喜んでくれて、思わず私まで嬉しくなってしまった。

 それからというもの、彼は一週間に一回現れた。
 現れては「お見舞い用の花を」と言って、それを喜びながら持ち帰っていった。

 名前も年齢も住所も連絡先も知らない彼に、私はいつしか惹かれていった。
 いや、それはもう「いつしか」ではなく「最初から」だったのかもしれない。

 恋を自覚すると、人間という生き物は自我というものの歯止めが効かなくなる。
 私ももれなくその罹患者で、中毒症状のように彼が来る曜日を待ちわびては、シフトは必ずそこを固定させ、時間が近づけば店頭で彼を探した。
 遠くのほうから彼が来るのを見ると、手を振ったりして気づいてもらえるようになんてしていた。

「ご友人のかた、早く退院出来るといいですね」
 笑顔で思ってもいないことを口走り、「そうですね」という彼の言葉をいつしか呪い始めた。

 胡蝶蘭というのは少しの振動で、その花びらを美しく散らしてしまう。
 それは本当に、気づかぬほどのわずかな亀裂で。

 ◆

 その日は突然やってきた。
 初めて彼がお店に来てから3か月目の出来事であった。
 鈍色の雲が空を覆い、ぱらぱらと小雨の降る日のことであった。

「これで花束を作ってもらうのは最後になるみたいで、寂しいです」
 彼は笑いながら私に言った。

「ご退院されたのですか?」
 私は恐る恐る聞いた。

「はい、無事に明日退院になります。毎回の花束に元気をもらえてたみたいで、リハビリとかもすごく頑張ってたんですよ」
「あ、そうですか。それは……嬉しいです」
「おかげで彼女と一緒に旅行出来るって思って嬉しいんです」
「え……? 旅行……? 彼女……?」
「そうなんですよ。ずっと好きな人で、思い切って告白したんです。幼馴染なんですけど……おっけーがもらえまして」
「そうでしたか」

 私は注文された通り、退院祝い用の花束を作った。
 ピンクのユリとイエローのカーネーションに、薄いオレンジのガーベラ、そして目立つようにホワイトの大きな胡蝶蘭。

 花束を渡し、彼は「ありがとうございます」とお礼を述べた。
 私は最後に、「これも添えてあげますね」と一本の花を真ん中に挿し込んだ。


『―――すごく綺麗な花束になりましたね』

 突き刺さった白いデイジーを見ながら、私はにっこりと笑った。
 どこかで胡蝶蘭がぽとりと落ちた音が聞こえた。

 おわり。


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静 霧一/小説
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