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静 霧一 『ドライフラワー』

 
 私は花屋に立ち寄った。
 そこに買いたい花があったとか、そういうわけではない。
 ふと、花屋の店先に並んだ青い紫陽花に瞳を奪われたのだ。

 そっと手を伸ばすが、私にはそれを掴む勇気はなかった。
 思わず口からため息が漏れだし、私は花屋に背を向ける。
 歩き慣れたはずの家までの帰り道が、少しだけ遠く感じた。

 ◆

 人というのは、良くも悪くも、背負った悲しみを日々の忙しさによって忘れていく生き物だ。

 私も例外なくそれに当てはまり、平日の仕事に忙殺されながら、休日はベッドでゴロゴロとスマホの画面で映画を見ていた。
 
 気づけば眠ってしまったようで、耳のイヤホンからはエンドロールの音が聞こえる。
 外はすっかりと夜になってしまった。
 私はベッドから起き、ため息をついた。

 ふと、部屋を見回した私の視線に本棚が映る。

 そこにはすでに花びらを白くした紫陽花が埃を被って花瓶に突き刺さっていた。

 私は立ち上がり、その花びらに触れた。
 すると、触れた花びらが1枚2枚ひらひらと音を立てずに落ちる。

 忙しない毎日が、貴方のことを忘れさせて、花びらが枯れてしまうほどに時間が経ってしまった。

「ジューンブライトだね」なんて、あの時私は笑ったけれども、貴方のあの時の笑顔は作り笑顔だったのかな。
 今となってはそんなこと、どうでもいいはずなのに、あの頃の記憶が鮮明に蘇ってしまう。

 この紫陽花は確か、鎌倉で摘んだものだ。

 私は生け花なんてしたことないくせに、どうにかこの紫陽花を長持ちできないかなんて貴方にわがままを言ったのを今でも覚えている。
 貴方は「ドライフラワーなんていいんじゃない?」って言って、この小さな部屋で2人で紫陽花をドライフラワーにしたね。

 そんな一時の幸せをもっと感じていればよかった。
 それでもお互い、そんな小さな幸せでさえも感じられなくなるほどに、余裕なんてなくて、私が思い出すのは口げんかして拗ねる貴方の後ろ姿だけなのだ。

 貴方と別れて365日が過ぎたけど、貴方ともう一度どこかで出会えたのなら、「私たち本当に合わなかったね」なんて笑って話せるだろうか。

 多分、それは難しいかもしれない。
 だって、私がまだそんな日々さえも愛おしく思っているのだから。

 私のスマホの通知音がふいに鳴った。
「明日のお見合い、準備大丈夫?」
 母からのメッセージだった。
 私はそのメッセージに「大丈夫だよ」とだけ嘘をついた。

 もうね、貴方のことを考えるのは辛くて、苦しいんだ。
 それでも立ち止まっちゃいけないし、前に進まなきゃいけない。
 そう教えてくれたのは貴方だったから、私は一歩踏み出せているの。

 今、貴方の隣には誰かいますか?
 きっと、笑いあいながら「どこまでも気が合うね」なんて言える人ですか?

 そうであったらいいなと思う反面、顔も見たくないと思う自分もいる。
 せっかく「私ばかり」なんて口癖だって、言わなくなってきたのに。

 貴方はたまに「今何してる?」なんてメッセージを送ってくるけど、そんな都合よく連絡しないでよ。
 貴方を嫌いになりたくて、ずっと我慢してるんだよ。

 だけどそれでも、ほんの少し残った貴方への優しさが指を動かしてしまう。
 弱い私を誰かに叱って欲しいだなんて幾度となく考えた。

 閉め切った部屋が変に埃っぽくて、私はカーテンを開き、窓を開ける。

 窓の外から6月の少し湿った風が入り込み、部屋の中で踊った。
 梅雨だというのに、雲一つない夜空には満月が淡い月光が街を照らしていた。

『―――ああ、なんで』

 何も悲しくないはずなのに、私の瞳から涙が流れた。
 潤んだ瞳に映った枯れたはずの紫陽花が、赤黄藍に鮮やかに映っている。
 胸の奥で貴方の名前が反響した。

 ただ淡々と過ぎていく時間の中で、思い出の紫陽花は枯れていった。
 ドライフラワーは永遠に枯れないものだと思っていたけれども、やっぱり枯れてしまうのね。

 私は色褪せていく貴方との記憶を優しく抱きしめる。

 ふと、後ろに誰かが私を抱きしめたような気がした。
「大丈夫だよ」って私の耳元で優しい言葉が囁かれた。

 驚いて思わず振り向くと、玄関で手を振る貴方の後ろ姿が見えた。
 それは瞳の中に残った、貴方の残像なのかもしれない。

 花びらがまた一つ落ちる。
 その残像がうっすらと透き通り、そして香りを残して消えていった。

 前に踏み出そうとしているのに、私どうかしてるよ。
 だって、まだあの紫陽花が色鮮やかに見えるほどに、貴方のことが好きなんだもん。
 貴方のことが嫌いになりたくて、貴方との思い出の香りも、全部全部捨ててきた。

 それでも、これだけは捨てられなかったの。
 貴方のこと疑ってごめんね。
 きっと、貴方のあの時の笑顔は作り笑いなんかじゃなかったよね。

 あの時の別れた悲しさも、今じゃ霧がかかっているみたいに思い出せないの。
 やっぱり時間が癒してくれるって本当だったんだね。

 紫陽花は色褪せてしまったけど、貴方を恋した記憶は色褪せてないよ。
 だから、この大切な思い出はそっと胸の奥にしまっておくね。

 まだ涙を拭えていない。
 それでも、私は前に進んでいくね。
 でも、最後にこれだけ言わせて。

『好きだったよ。ありがとう』

 ◆

 私はふと花屋に寄った。

 何か買いたい花があったわけではない、なんて強がったら嘘つきになっちゃうかな。

 藍色に咲いた紫陽花に手を伸ばす。
 私はそれを包んでもらい、紫陽花の花束を片手に、帰り道を歩いていく。

 今日はなぜだか、歩き慣れたはずの帰り道が、少しだけ短く感じた。

 おわり。

※私なりの解釈ですので、原曲と解釈が異なります。

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静 霧一/小説
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