私は檸檬タルトに恋をした。
檸檬の甘酸っぱい香りが漂う。
私はどうも、恋をしたようであった。
◆
とある平日の午後のこと。
ふらりと外を散歩していると、洋菓子屋の前に行きついた。
こんなお店、前からあっただろうか。
私はおぼろげな記憶を思い返してみる。
確か、ここには定食屋があった。
老夫婦が営む、古い定食屋。
居ぬき物件ということもあり、店外の様子は、ぼんやりとであるがあの定食屋の残像がある。
私は、その懐かしさに誘われ、店内へと足を運んだ。
カランカランと引き戸のベルが鳴る。
外の喧噪は消えてなくなり、私はこの洋菓子屋という絵画の中へと入り込んだような、そんな不思議な感覚を覚えた。
店内には、落ち着き払ったジャズが流れ、入り口近くにあるショーケースには果実で彩られたケーキが、恭しく座っている。
私はてっきりケーキだけが売られている洋菓子屋かと思っていたが、店内にはテーブルが4つほど設置されており、飲食スペースが設けられていた。
「いらっしゃいませ」
大学生ほどの店員さんが、私に向けて柔らかな声で挨拶をした。
その挨拶に無言で会釈をすると、私はじっとショーケースを眺めた。
時間は午後の3時
少しばかり、小腹が空いてきた。
私がちらちらと店内に設置されたテーブルを見ていると、店員さんがそれに気づいたのか、「店内で食べられていきますか?」と気を使ってくれた。
私はまたも無言で会釈してしまったが、店員さんはそんな不愛想な私に笑顔を向けてくれた。
少しばかり、私の心がちくりと痛んだ。
私が椅子に腰かけると、店員さんはお冷とメニュー表を手渡した。
「こちら、おすすめですよ」
店員さんは、メニュー表の一番上に書かれた「日替わり季節のケーキセット」を指さした。
ケーキセットはケーキと珈琲がついて1セット1000円と表記されている。
他の単品ケーキメニューを見ると、そのどれもが700円以上するものばかりだったので、私は迷わずケーキセットを注文した。
「今日のケーキは……何ですか?」
私は店員さんに尋ねる。
「今日はですね、檸檬タルトです」
店員さんは笑顔を浮かべ、注文票をショーケース奥の厨房に手渡していた。
檸檬タルトとはいったいどんなケーキだろうか。
私の胸は、ときめきに溢れていた。
そんな待ち遠しさに高鳴る心とは裏腹に、私はじっとガラス扉の外の景色を眺めていた。
自転車に乗る青年、ベビーカーを押す主婦、わいわいと駆け走る小学生。
多様な人たちが、お店の前の道を通っていく。
まだここが定食屋だった頃、私は同じ場所に座ったことがある。
ほんの数回しか来たことはなかったけれども、たまたま今の席と同じ場所に座った。
あの頃は、こんなにゆっくりと景色を眺めている余裕など私にはなかった。
2年前、私は保険営業の仕事をしていた。
毎日のように口座開設のお願いと、保険加入の営業を行っていた。
忙しない毎日に、私は充実した気になっていた。
そんな多忙にかまけていたせいか、私は大学生の頃から付き合っている彼との衝突が増え、次第に彼は私から距離を置いていった。
忙しさのストレスを八つ当たり、愚痴を言う毎日。
彼は私が傷つかないようにと、何を言われても「大丈夫だよ」と包み込んでくれていたが、私はそんな彼の優しさにひどく甘えてしまっていた。
恋の破れた理由は私にあると、今更ながら後悔している。
私は彼と結婚をするんだと、盲信していた。
盲信はいつしか傲慢へと変わり、彼の優しさに自分の痛みを押し付けた。
彼は最後にさようならも言わずに私のもとを去った。
当時は理解しない彼のせいだと、自分の弱さを隠すために彼を責め続けたが、今になって年下の彼に救われ続けていたのだと、私の未熟さを痛感している。
一度、狂った歯車が元に戻ることはない。
彼と別れてから、私の仕事は奮わなくなり、体調を崩し始め、よく休むようになった。
そしてある日、私はベッドから動けなくなった。
身体が鉛のように重く、私はベッドに仰向けになりながら、窓のカーテンの隙間に見える、木々の葉の揺らめきをぼんやりと眺めていた。
気づけば私は涙を流していた。
あぁ、もう自分は限界なんだと初めてそこで気づいた。
その後、私は会社を辞めた。
後悔など、何もなかった。
◆
「お待たせしました。こちらケーキセットになります」
店員さんがにこやかに、テーブルへとケーキを運んできた。
白いお皿の上に乗る、檸檬タルトの風味が私の食欲をくすぐる。
タルトの上には、薄切りの檸檬が何枚も飾られており、それはまるで黄色いドレスのようにも見えた。
私はフォークを差し込み、ぱくりと一口頬張る。
その瞬間、私の口の中は檸檬一色に広がった。
タルトに詰められたアパレイユの柔らかな食感。
その上に白く敷かれたクリームチーズには、細かく切られた檸檬の皮が混ぜられており、甘すぎないクリームと混ざり合って、口を動かすたびに檸檬の香りが充満し、私の顔が綻んでいく。
さらに薄切りにされた檸檬は、はちみつによく漬けられており、これもまた絶妙な甘さと酸味のバランスを整えている。
その相性は言わずもがな、「美味しい」の一言に尽きる。
私は、口の中の檸檬の残り香を呑み込むように、珈琲に口をつけた。
燻された黒い珈琲の苦味が、さきほどの檸檬の誘惑と手を繋ぎ、私の食欲を掻き立てる。
気づけば、すっかりと白いお皿は綺麗になっていた。
私はフォークをお皿の上に置き、ごちそうさまと手を合わせる。
心に残る甘い余韻と、少しの寂しさ。
もう一度会いたいというこの気持ちは、どこか恋にも似た感情だ。
私は檸檬タルトに恋をした。
小さな恋だけれども、今の私にはこれぐらいがちょうどいい。
私は小さく微笑んだ。
おわり。
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こちらに感化されて、少しばかりお洒落な小説を書いてみました。
紹介記事を書いてくれたみなとせ はるさんの記事も貼っておきます。