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静 霧一 『水天一碧』

(序) 

 冷たい水の中に溺れてゆく。
 不思議と、苦しいとは感じなかった。
 むしろ「あぁ、私は溺れていくんだな」と、思えるほどであった。
 心許なく光っていた街頭の灯りがだんだんと薄くなっていく。
 私は静かに目を瞑り、「これでいいんだ」と細かな水泡となっていく命を吐き切った。

(一)

 水天一碧。
 空と海の境界線が溶けた世界に私は棲んでいた。
 たった一人、教室の隅の席で、私は佇んでいる。
 ただじっと、窓の外の景色を見つめるだけの毎日が、色も無く過ぎていく。

 教室に鳴るチョークが黒板を駆ける音、屋上で鳥が囀る声、窓から吹き込む陽光を包み込んだ風の匂い。
 混色とした感情で色鮮やかに塗られ、澄んだ空気が風の手を取りワルツを踊っている。
 そんな小さな眩しい青春の箱庭は、私にとって水獄のようでした。

 私はそんな見えぬ檻の柵の隙間から見える、空の青を見つめながら、父と過ごした幼き日のことを思い出していた。
 私が青というものに憑りつかれたのは、幼き日に見た景色のせいであった。

 それは、まだ手足が悴む氷のような2月の朝。
 太陽が昇る前の海が見たいと、幼き日の私は父にせがんだ。
 なぜそんなわがままを言ったのかは、今では思い出せないでいる。

 自分で言ったのにも関わらず、朝4時に父に起こされた私は不機嫌であった。
 眠気眼をこすりながら、白い軽自動車に乗って、私と父は海を目指した。
 ガタンガタンと揺れる車内が、まるで揺り籠のように、私の眠気を誘い、気づけば助手席で眠ってしまっていた。

 1時間ほどだっただろうか。
「着いたぞ」という父の声で、私は起こされた。

 暖かい車内から外に出ると、凍り付いた寒さとともに、潮の香りがツンと鼻を突いた。
 何度も見てきた海であったが、硝子のように夜が割れていく様は、絵画の中に飛び込んだような、そんな非日常感を私に与えた。
 太陽の光が地平線に伸びていき、空と海の青がその白い光によって混じり合い、幻想的な景色を描き出していく。

「お父さん、すごく綺麗だね」
 私は、ごつごつとした父の岩のような左手を握りながら言った。
 父は一言、「そうだな」と渋い声で呟いたのを覚えている。

 寡黙な父であった。
 だが、私と同じ景色を見るその瞳が、少しだけ潤んでいるようにも見えた。

 母が亡くなって数年が経っている。
 お葬式の時にでさえ、泣くことの無かった父を、私は鉄のような人だと思っていた。
 そんな父の頬に、一縷の雫が滴った。

「あぁ、この人も人間なんだな」
 私も、父につられ涙を流した。
 一匹のカモメが、私たちの祈りを運ぶようにして、空とも海ともいえぬ青の中を回遊していた。

(二)

 背丈が伸びていくほどに、私は息の仕方を忘れていった。
 子供の頃とは比べものにならないぐらい、気を使えるようになったと思う。

 病室で横になる父、私を気遣う先生、一緒に笑ってくれる友達。
 楽な人生ではないけれども、充実しているはずであった。

 だが、そんな充実とは裏腹に、日に日に、私の中の泡が漏れていく感覚に襲われた。
 まるで教室に水が溜まっており、見えぬ鎖で手足を縛られながら、必死に空気を求め藻掻き続けるそれに似ている。

 だが、そんな表情など噯(おくび)にも出すことなく、私は日常をやり過ごしていた。

(三)

 息を吐くたびに、白く凍っては消えていく2月の夜のこと。
 私の体はとうとう耐えられなくなり、裸足のまま外を駆けだした。

 自分が限界であったことは知っていた。
 何度か友達にも肺の中に溜まった水を吐き出そうと、声をかけようとしたが、触れる直前にそれを躊躇ってしまった。
 きっとめんどくさい奴だと思われるだろう。
 そんなことが頭を過り、結局、私は水を吐き出すことが出来ぬまま、溺れながらに生きた。

 いつか助けを求められるようにと、私は他人に気を使った。
 助けてもらえるだけの信用を溜め込んだ。
 だが、それは都合のいい自分のエゴであり、そんな生ものみたいな信用は、すぐに腐っていき、人の頭から捨てられていく。

 何もかも無駄だった。
 そう思った途端、ごぼごぼごぼと肺の水が口から溢れ出したのだ。
 溢れ出る水の悪態を必死に抑えながら、私は夜の道を駆ける。

 たどり着いた場所は一本の橋の上であった。
 下には川が流れている。
 橋についた街灯の光が川の水面に反射しているが、底を測ることなど出来ないほどに暗い。

 私は橋の欄干に手をかけ、そして何を思ったのか、それを乗り越え、川へと落ちた。

 ひんやりとした水が、私の肌を覆っていく。
 先ほどまで抑え込んでいた肺の中の濁った水が、川の中に流れていった。
 そして微かに残った、空気が細かな泡となって、水面に向かってシャボン玉のように飛んで行く。
 私はその水泡を必死に捕まえてみるが、空しくもそれは手をするりと抜けていった。

「あぁ、私は溺れている」

 不思議と、苦しさは感じなかった。
 こんな時、誰かが私のもとへと飛び込んで、肺に溜まった綺麗な空気を唇を重ねて吹き込んでくれたなら、もう少しマシな明日を過ごせたのかもしれない。

 だけども、それはもう過ぎた事であった。
 終わりの泡を吐き出し、私はゆっくりと目を瞑る。
 仄暗い水の底へと沈んでいく私は、いつまでも孤独であった。

(了)

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静 霧一/小説
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