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無償の愛を定義する。

①言葉を定義する

「無償の愛」とは、なんとも不可思議な言葉である。
なぜ、愛の前にわざわざ「無償」などという言葉を置くのだろうか。
まずはこの「無償」と「愛」の言葉を分解してみようではないか。

①無償:報酬のないこと。また、報酬を求めないこと。
②愛:個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重して行きたいと願う、人間本来の暖かな心情。


国語辞典には上記のことが記載されている。
だが改めて考えてみると、この2つの言葉の組み合わせは実に変である。
わざわざ「無償」という言葉を付けるということは、これではまるで本来の「愛」が、ギブ&テイクを前提としたものであるということを言っているようなものではないか。
日本には古くから「持ちつ持たれつ」という言葉がある。
お互いに支え合うという言葉であるが、この言葉により「愛」の定義がされているのならば、「無償」を付けるという行為は果たして果たして適正なのであろうか。
この「無償」という言葉は、「愛」の前置詞となることで、「愛」の意味を打ち消しているようにしか思えない。
かの有名な「人という字は支え合って生きている」という言葉があるが、「無償」を付けることによってその「支え」を抜き取っているようなものであり、それはもはや「愛」などとは呼べないのだろう。

②ボランティアの語弊

さて、「無償」という言葉が惑わすものの代表例として「ボランティア」が挙げられる。
「ボランティア」は世間では「無償労働」と言われることがあり、それに対し偽善だのなんだのと声を上げる人が多数存在する。
そもそもボランティアの語源はラテン語の"voluntus"からきており、その意味は"自由意志・自ら進んでやること"とされている。
それではなぜ、「無償労働」などという侮蔑的な言葉になってしまっているのだろうか。
それは、人のために何かをするという「自発的な行為」を、「労働」という概念に当てはめる人が多数存在するためだ。
そもそも自発的な行為というものを定義するのであれば、必ずその要件に「無償」であることが組み込まれていなければいけない。
だが、多くの人はその自発的な行動の必要要件である「無償」という言葉を疑念を抱く。
「ギブ&テイク」という本を引用させてもらうと、人間は3種類に分別することができ、ギバー(与える人):20%、マッチャー(ギブとテイクを両立する人):55%、テイカー(奪う人):25%と相手から何かをもらうことで物事が成立すると考える人が80%を占めているということがわかる。
だからこそ、「無償」という言葉に疑念を抱き、自発的な行動を行うということは何か対価を得ると理解した上での行動だと考えて仕方ないのだ。
この対価を得るという行為を総じて「労働」と一括りにしてしまっているために、ボランティアは「無償労働」と言われ、大多数の人々から綺麗事だと言われてしまうのだ。

③無償を考える

さて、話は逸れてしまったが本題に戻ろう。
上記のボランティアの例を挙げた通り、人は無償という言葉に疑念を抱く。
だからこそ、「無償の愛」というのは綺麗事だと罵倒され、そんなもんは漫画の世界のお話だと揶揄されることが多い。
「労働」は物理的対価のやりとりの総称であるのなら、「愛」は感情的対価のやりとりの総称であると私は考える。
感情的対価のやりとりが「愛」であるのなら、「無償」という言葉を付けた瞬間に、それは「一方通行」と置き換えることも出来てしまう。
そう、「無償の愛」とは一方通行な感情の押し付けとも捉えることが出来てしまうのだ。
ボランティアも、時として「一方通行」な行動として批判されることが数多くある。
それは知識不足、経験不足故に起こる問題なのかもしれない。
そして「愛」もまた、度々そのような事態が起こる。
結局のところ、自発的な行為を純なるものか押し付けかを考えるのは、それを貰い受けた当人が決める言葉であり、「無償の愛」というのは客観的な視点で表現する言葉あると私は考える。

④「無償の愛」を定義する

私は「愛」の前に「無償」と付けるのは反対だ。
なにせ、誰かのために何かをするというのは、わざわざ見返りを求めてすることではない。

だが大多数の人間は、その性質上、見返りを求めてしまうというのは仕方のないことだし、それが本来普通なのかもしれない。
「無償」という言葉を前に置くことで、あたかも見返りのない「愛」は尊い行為であるという証明をしつつも、一方で、偽善的な行為であると思ってしまうのだ。
それは「愛」という言葉が、非常に特別な言葉だからこそ言えるのかもしれない。
数学の絶対値という言葉があるように、振れ幅が大きければ大きいほど、その正負の距離は大きくなる。
だからこそ、「無償」という言葉を付けることに私は反対なのだ。
お互いを思いやる「愛」は、物事の等価交換ではない。
よって、「無償の愛」の定義は"自発的による感情的対価を必要としない行動"となるのではないのだろうか。
だがこの定義の注釈にはこう書き加えておくことを推奨しよう。
※大多数の客観的な視点によって、言葉の解釈が変わる場合があります と。

⑤最後に

小難しいことばかりを話してきたが、ここからは私の感情の話をしていきたい。
人は何かを自発的に行ったとしても、何か見返りを求めてしまう性質があるというのは仕方のないことである。
だからこそ、見返りを求めることが悪であるという決めつけをしないで頂きたい。
例えば、LINEでやりとりをしていて既読無視をされた、誕生日にプレゼントをあげて何も貰えなかった、食事を奢ってばっかりでお礼も適当だ、などなど、身近に潜む見返りというのは数多く存在する。
もはや見返りを求めるというのは本能に近しい思考であり、それを理性で抑えるというのは苦行にも等しい。
見返りを求めないというのはそれほどまでに難しいことなのだ。
難しいからこそ、見返りを求めない人に「何か裏があるんじゃないか」とか考えてしまうこともいたって普通なのである。
「無償の愛」とは、精神修行に近しいものがある。
どんなに見返りを求めないと心に強く誓っても、ひょっこりと顔を出しては、「見返りを求めろ」唆してくるのだ。
私は修行僧でもないし、悟りの境地に至っているわけでもないので、夜な夜なそんな煩悩と戦っている。
だが、見返りを求めないのは綺麗事だと言われるからこそ、やることに価値はある。
それほどまでに、普通の人では出来ない尊い行為なのだ。

ここで私が、簡単に見返りを求めないために魔法の思考を書き記そうと思う。
それは「人間はいつ死ぬかわからない」という思考だ。
この思考は馬鹿にされることが多いが、非常に大切なものである。
私の場合、仕事中に車を運転していて事故に会うかもしれない、睡眠中に息が詰まってしまうかもしれない、帰り道に車に撥ねられるかもしれないと常々思っている。
そんな馬鹿なと思う人もいるだろうが、現実、私はそれで身近な人を失っている経験をしている。
だからこそ、「今、この時点でやらなければ死ぬ間際に必ず後悔する」と思うことは何を思われようとすることにしている。
それは、頑張っている隣の同僚にお菓子をあげようと思ったが後回しにしてしまって結局渡せていないこと、親にありがとうと感謝を伝えなければいけないのにタイミングが見つからずに言えていないこと、恋人に恥ずかしいからと愛を囁くことが出来ていないことなど、数多くあるだろう。
「人間はいつ死ぬかわからない」という思考は、とにかくやりきってしまうという思考に紐づくのだ。
これこそが見返りを求めないという思考への近道なのだと私は考えている。

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静 霧一/小説
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