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静 霧一 『朝と踊る』
凍りついた夜が溶けていき、地平線の彼方が青と赤に滲んでいく。
私はその様子を眺めながら、両手を合わせ、遠くの空にいる神様に祈った。
『―――どうか、朝と踊れますように』
そうして、私は白く息を吐いた。
◆
鬱屈な日々が続く。
目に見えない壁が私と世界を遠ざけていく。
誰しもが不安の表情を、その笑顔を浮かべたマスクの裏に隠していた。
朝なんてものは幻想で、きっと、これは夜空に描いた空想の朝なのだと、いつの間にか私はそう思い込んでいたのだ。
空想の朝が終わり、そして本当の夜が訪れる。
終わりなき夜に私は憂い、泣いた。
金曜日の夜。揺れる電車の車窓に映る自分を見つめた。
鞄を背負う肩に皺が寄り、ふと気が付けば袖口が少しばかり解れている。
いつの間にか、私はそんな解れにも気が付かぬほどに、廃れてしまっていた。
仕事終わりの週末は、友達と食事に行って恋を語り合ったり、映画で固まった涙腺をほぐしたり、最高に自分を癒す時間になるはずであった。
そんな自分の輝かしき時間を、見えない怪物が貪り尽くしていく。
そんな当たり前に過ごした日々が無くなっていき、とうとう、私から朝が消えたようにも思えた。
家に着いた私は、背負った鞄をソファーに投げ捨てる。
そのまま口を開け、放心状態のままに何げなくテレビをつけた。
すると、そこには和気あいあいとした雰囲気の音楽番組が流れ出し、月間のヒットチャートをランキングで紹介しているところであった。
そのランキングには今流行りの曲が載っており、1位であった『夜に駆ける』にいたっては日常生活のいたるところで、耳が擦れてしまうほどに聞いている。
私はこの曲が嫌いだ。
みんなが口を揃えていい曲だなんて合唱するけれども、夜に駆けていくだなんて、結局は朝を知らない部屋の隅に置かれた人形の夢物語じゃないか。
そんなことを思いながら、一人寂しく部屋の中で溜息をつく。
投げ捨てたいつかの花束が、萎れて、ぽろぽろと崩れている。
他人の幸せも好意も優しさも、すべてが薄皮の向こう側で止まってしまっているのだろうか。
今じゃ、私の中に渦巻くのは嫉妬だったり嫌気だったり、そんなヘドロみたいな感情ばかりだ。
最近の私は、心の中が満たされるという感覚を忘れかけているような気がする。
そんな心の隙間を無理やり埋めるように、私は強めのアルコールを流し込んだ。
不味い。ひたすらに酒が不味い。
酔うために買ったはず酒が、泥水のような味がした。口直しにお茶を飲んでみるが、やはり不味かった。
私の中に溶けたヘドロのような感情がきっと私の味覚を奪っているのだろう。
私は中途半端に飲みかけた酒を、洗面台へと流した。
「はぁ」とため息をついて、ベッドに横になり白い天井を見つめた。
私はその天井に向かって指を伸ばし、色のない指先で頭に浮かんだ絵を描いていく。
ふと浮かんだのは、朝靄に包まれた渋谷の風景であった。
微睡みの中で見た、いつかの風景。
あの神秘的な朝だけは、なぜだか今でも覚えている。
薄暗い青の中に灰色が漂い、ビルの隙間から伸びた朝陽が、靄に反射して、きらきらと輝いたあの風景。
私は思わず、両手を合わせていた。
そこに神様がいるような気がしてならなかったからだ。
きっと酔いが回っていたのかもしれないが、私にとってはそんなことどうでもいい。
この朝と私は踊りたいのだ。
そんな朝焼けに染まる渋谷で、あの日の私は鼻歌交じりにスキップしながら、千鳥足のワルツを踊ったのであった。
あんな朝を、私はもう一度見たい。
私の心が、ふと美しき情景を求めた。
早めに布団の中にもぐりこんだ私は、朝4時にアラームをセットする。
果たして起きれるのだろうかと不安になったが、意外にも簡単に起きることが出来た。
私は眠い目を擦りながら自転車に乗って、朝の迫る夜を大急ぎで漕いでいく。
住宅街を越え、踏切を渡って、道路の先の先へ、ずっと真っすぐに車輪を回す。
どこからか烏の鳴き声が聞こえ、いよいよ夜の割れる音がし始める。
「着いた」
私が白い息を切らしながら到着した場所は、町境を流れる一本の川の橋の上であった。
凍り付いた夜が溶けていき、朝陽の赤が徐々に溶けた夜と混じり合い、滲んでいく。
空の境界線が無くなっていく光景に、私は思わず手を合わせた。
「きっとあそこには神様がいる」
なぜだか、そう思えたのだ。
きっとまだ、私の心の底にたまったヘドロは消えてはくれないだろう。
それでも、少しづつ、私はこの朝を愛していこうと思う。
私は朝の魔物に魅入られたのか、だんだんと足取りが軽くなる。
スキップをしながら鼻歌を歌い、そして風と踊った。
まるで、柔くて脆い朝を優しく抱くようにして。
今日はカフェで贅沢にモーニングでも食べようかな。
ふと、お腹の虫がきゅるりとなった。
私は少しだけ、笑えたような気がした。
おわり。
◆
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