AIの民主化と、AIによる民主化 イノベーションの望ましい帰結
OpenAIのGPT-3.5公開以降の動きを指して「生成AI時代」の幕開けとして、インターネットの登場に比して論じることが多くある。5回前の記事(#48ソフトウェアからハードウェアへ IT技術25年周期説で占う未来)では、社会学者の吉見俊哉さんの25年周期説を参考にし、歴史のメルクマールとして捉えた。いま思う。生成AIは果たしてすべての人々のものになりうるのだろうか。
テクノロジー・レイヤーとサービス・レイヤー
冒頭に書いたように、わたしはこの記事においてGPT-3.5公開をずっと1995年のMicrosoft Windows95の発売と、それに続くインターネットの普及、電子メール常用の拡大の歴史に類比してきた。現在、インターネットもメールもない日常は考えられない。いつの間にか「電子」やら「イー」という語をつけなくなった。もはや「メール」と言えば郵便ではなく、インターネットを介した通信以外を指さない。もちろん、これは日本語だけの事情なのだが、インターネットの普及、電子メール常用の拡大については、世界のどこでみても同じだろう。
GPT-3.5公開を、2004年以降のSNSの普及によく似た状況になっていると述べる人もいる。SNSもいうまでもなく、わたしたち皆のものになって久しい。各種サービスに栄枯盛衰はあった。それこそ2004年時点では、Facebookよりも日本独自のSNSであるmixiやGREEがユーザーを爆発的に拡大させていた。登場からちょうど20年目の昨年末、新たに「mixi2」としてサービスを開始したことに時代の循環性を感じてしまう。テクノロジーは進化しても、サービスの新旧は短期的に変わるものであり、長期的に見れば旧いものがそれを知らなかった世代に新しいものとして普及する例は決して少なくない。デジタル音源の配信が普通になりつつあった音楽鑑賞で、ここ数年はレコードがブームと言えるほど復活してきている。それを支えているのは若者たちだ。
なにやら近年はCDも復活的にブームになるとも言われている。デジタル信号をアナログ信号に変換する機器であるDACの性能が向上し、しかも安価になったことで、CDを音質よく聴ける環境が身近になったことが根拠のようだが、どうなるか。数百枚あるCDはすでにリッピング済みでサーバ内の音源を聴いているだけで、データがあればCDは不要なのに捨てられずにいるわたしなどは気になるところだ。
話が逸れてしまった。
生成AIの普及をインターネットのそれに比較するのか、あるいはSNSに類比するのかはテクノロジーのレイヤーで考えるか、サービスのレイヤーで考えるかの違いにあると考えられる。
生成AIは、サービスのレイヤーでさらに大きなイノベーションが起きると思う。それはきっと今からでは予想もつかないサービスが出現するだろう。いろいろと想像力を働かすのも面白い。サービスのレイヤーは、デバイスのレイヤーとも隣接あるいは同期している。わたしは以前から、生成AIの時代はそれに相応しいデバイスが登場すると考えている。インターネットの時代はスマートフォンの登場によって決定づけられ、そして生成AI時代へと橋渡しされた。電車内や街中で、インターネット接続している人が大勢を占めているのはひとえにスマホあってのことだろう。
生成AIはキャズムを越える
ハイテク製品や革新的サービスがいかにして一般ユーザーにまで普及していったかを分析したのはアメリカのコンサルタント、ジェフリー・ムーアが1990年代に発表、邦訳は2002年に刊行された『キャズム ハイテクをブレイクさせる超マーケティング理論』(川又政治訳/翔泳社)だ。
キャズムとは「溝」のことだ。先端的な製品やサービスがコアなユーザーから一般ユーザーにまで拡大する際に越えなければならない深い溝をこう呼ぶことは、ビジネスパーソンによく知られているだろう。
アメリカの社会学者、エヴェリット・ロジャースが『イノベーションの普及』(三藤利雄訳/翔泳社)で提唱した「イノベーター理論」による5つの分類、すなわちイノベーター(先駆者)、アーリーアダプター(初期採用者)、アーリーマジョリティ(前期追随者)、レイトマジョリティ(後期追随者)、ラガード(遅滞者)のうち、アーリーアダプターとアーリーマジョリティの間にキャズムが発生するとムーアは分析し、それをいかに越えていくか事例を交えたマーケティング戦略を指南した。
ところでエヴェリット・ロジャースの『イノベーションの普及』こそ、1960年代来、数十年にわたって読まれてきた名著で、その最終章は「イノベーションの帰結」と題され、イノベーションがもたらす結果を、望ましい帰結/望ましくない帰結、意図された帰結/意図しなかった帰結に分けて考察する。ここでわたしが繰り返し論じ、考えてきたテクノロジーの浸透がどんな未来をもたらすかをロジャースはこの名著で改訂を重ねながら考察している。ロジャースが重要視するのはイノベーションがもたらす格差の問題で、わたしの本質的な関心と通底しているのだが、残念ながら今回はこれ以上立ち入ることができない。手元においていながら精読が足りないのと、この古典とも言える名著については正面から取り上げなければいけないと思うからだ。
話をすこし戻す。ムーアのキャズム理論でもっとも困難とされるのが、アーリーマジョリティへの浸透、普及である。彼らは極めて実利的な判断に基づいて導入を決定するため、リスクを嫌い世間の全体的な動向となるまで慎重な姿勢を保つからだ。
インターネットや電子メールが、イノベーター、アーリーアダプターから、深いキャズムを超えてアーリーマジョリティ層へと本格的に普及しはじめたのは、1990年代後半から2000年代初めと考えていいだろう。その頃には、インターネットや電子メールを使わないと不便という認識が広まって、使用者とそれ以外の人で情報や効率の格差が生まれるようになっていった時期だ。
SNSではどうだろう? 欧米と日本では若干の時差があるものの、概ね2000年代の中盤から2010年代の初頭にかけて、SNSはアーリーマジョリティ層への普及を果たしている。若者を中心としてmixiやGREEが広がり、アカウントを持ってないと遅れていると認識されようになったのが2000年代後半で、Facebook、Twitterの上陸によって若者より少し上の世代にも浸透していき、やがて企業がアカウントを開設することで、SNSを活用できないとビジネスで取り残されるような状況になっていった。
インターネットにしてもSNSにしても、イノベーター、アーリーアダプターからアーリーマジョリティへの移行はおおよそ5年を要している。
翻って生成AIについてはどうか。GPT-3.5の公開が2022年秋だとすると、2025年の現在はアーリーアダプター層に急速に拡大しているところと見て間違いないだろう。そう考えれば、あと1〜2年のうちにアーリーマジョリティ層に普及して、おそらく都市圏のビジネスパーソンや若者たちにとって、当たり前の日常ツールになるはずだ。
テクノロジーの民主化の最新バージョン
生成AIの普及が広がるに従って、そこかしこで聞かれるようになったのが「AIの民主化」という言葉だ。これは、古くから言われる「テクノロジーの民主化」の最新バージョンということになろう。
歴史として見れば、15世紀のグーテンベルクの印刷機の発明が最初の例に挙げられることが多い。本やパンフレットを大量に生産できるようになり、それまで聖職者や貴族の独占物だった文字情報が一般庶民に解放されるようになったからだ。
このレビューの一連の記事でいえば、1960年代終わりから1970年代初めにかけて、汎用的な演算装置(CPU)が生まれ、メインフレームという一部の大企業や公的機関だけのものであったコンピュータをパーソナルなものへと解放した例を挙げる人も多いだろう。この時代はヒッピームーブメントの時代であり、アメリカ西海岸ではカウンターカルチャーの文脈で「個人が自由に道具(ツール)を使いこなして社会を変えよう」という思想が育まれ、コンピュータもまた「自由の道具」と見なされるようになっていった。ウォズニアックとジョブズが出会った時期だ。
印刷機に比類されがちなのがインターネットである。大学や専門機関に閉じられていた文献や論文、情報に世界中の誰もが自由にアクセスできるようになった。インターネットは同時に世界中の人をつないだ。それまでに考えられなかったような共同作業を実現した。
この文脈で述べておかなければならないのはLinuxに始まったオープンソース革命による民主化だろう。
フィンランドの学生リーナス・トーバルズは趣味的に開発した、コンピュータを動かすための基本ソフトであるOS「Linux」をインターネット上に一般公開してプログラムを配布し自由に改変することを許した。これにより、Linuxは圧倒的に進化する。それまでは、大企業が独占的に開発し提供していたOSを、誰もがソースコードにアクセスし改変して配布できるという仕組みを世界に浸透させ、結果として「ITの民主化」を大きく推し進めた。
この辺りについては、『それがぼくには楽しかったから 全世界を巻き込んだリナックス革命の真実』(リーナス・トーバルズ、デビッド・ダイヤモンド著/中島洋監修/風見潤訳/小学館プロダクション)という自伝的な開発物語に詳しい。2001年に出た本で、この時期にはLinuxが起こしたオープソースにまつわる書籍がほかにも多く出ていたと記憶している。それほどビジネス的にもインパクトがあったのだ。「こんなすごいものをつくって、タダで提供するなんて!」という具合だ。
2000年前後には、Linuxをはじめとしたオープンソースを活用して、個人が大企業の開発チームにも引けを取らないようなソフトウェアを開発するようになっており、それ以前の世代からは考えられないような仕組みがものすごい規模で出現していた。
昨今のAIの民主化もこの流れのうえにある。OpenAIが公開しているChatGPTのAPIを代表とするオープンソースを活用して、現在、世界中で生成AIのシステムが構築されている。AIの民主化は、数年前まで大企業や専門家に限られていた高度なAI技術を、より多くのエンジニアやユーザー、さらには零細企業までが自由に利用できるようにし、誰でも手軽にAIを導入・活用できる状態をつくりだしている。
わたしにとって大切なのは、テクノロジーの民主化よりも「テクノロジーによる民主化」のほうだ。AIの民主化よりも「AIによる民主化」こそ、考えねばならない点だ。
印刷機の発明は、ルターをして誰もが手に入れられるドイツ語訳の新約聖書をつくらしめ、カトリックの聖職者にしか口にできなかった神の言葉を庶民に解放した。聖書の言葉に従うことを第一義とするプロテスタントを誕生させ、庶民の信仰を庶民自身のものにし、民主化したのだ。
AIによって、果たして誰が民主化されるのだろう。
結論を先取りしていえば、それはメリトクラシー、テクノクラシーと言われる現在の社会のキャリアや働き方の基準のなかで苦しんでいる弱者や貧者であると考えている。先述に戻っておけば、アーリーマジョリティより後のレイトマジョリティと重なる層である。
メリトクラシー、テクノクラシーが生み出したさまざまな格差を埋め合わせるようなテクノロジーとしてAIは社会に浸透していくべきだ。
やや余談だが、インターネットメディアが既得権益の代表格たるマスメディアを失墜させていくいま現在の状況も、テクノロジーによる民主化といえると思っている。情報選択と発信の独占を、庶民に解放しているからだ。
テクノロジーはマズローの5つの欲求を満たす?
『それがぼくには楽しかったから』にあるように、リーナス・トーバルズがLinuxを公開して誰でもが改変して使えるように世界中のエンジニアと共有した動機は、FUN(楽しみ)しかない。それは、その時期に独占禁止法違反となったMicrosoftのWindowsを開発したビル・ゲイツが目指した市場競争に勝って支配者となるという考えとは対照的である。そして、ここにこそテクノロジーが目指すべき帰結の理想像のひとつがある。
リーナスは同書で、行動の原動力となるものを「生存」「社会的関係・承認」「娯楽(楽しさ)」の3つに分ける。食うや食わずで、生存が脅かされるような状況ではテクノロジー開発など進むわけもない。安全が確保されると、自らの行動(技術)をみなに認めてもらいたい、承認されたいというモチベーションで行動するようになる。さらにそれが満たされると、ただ娯楽のために、みずからを喜ばすために行動するようになる、と。
ここですぐに思い出されるのが、心理学者アブラハム・マズローの欲望5段階説だろう。「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属の欲求)」「承認欲求」「自己実現の欲求」というあのピラミッドで描かれた図を思い浮かべるはずだ。低次の欲求が満たされることで、より高次の欲求を抱くようになっていく。
わたしは以前から欲望5段階説とテクノロジーの進化はシンクロするものではないかと考えてきた。もっとも低次な欲求である「生理的欲求」に対応するかたちで最初のテクノロジーは生まれ、徐々に高次の欲求に向かってテクノロジーはその領域を広げながら発展しているという見立てだ。
食欲を満たすために、狩猟の技術としての弓や罠が開発されたり米や麦のために農耕が生まれたり、それを調理したりあるいは体を温めたりすることで健康を維持しようと火を使うようになり、やがて自身と家族の安全を守るために住居を開発し、集団が形成されるとそれぞれの役割と所属を認めるために社会組織が開発される。文字や文書の発明は、社会のなかでみずからの存在を差別化して承認されるため、音楽や絵画といった芸術的行為のためのテクノロジーは自己実現の欲求のうえで大きく前進してきたのではないかと考えている。
リーナスがそうであるように、AIというテクノロジーはより高次な欲求にまで、かつてないほど充実した対応を可能する。あと数年もすれば、僻地の小学生が2時間の映画を一人で制作してしまうことでさえ荒唐無稽なことではなくなるだろう。すでにYouTube上には、若いクリエイターは多くいるし、新海誠のように一人でアニメ作品を完成させたクリエイターの先行例も多い。シナリオも撮影も演出も演技もすべて生成AIを活用し、それぞれのAIに役割を与えて共同作業することも可能だ。
どんな弱者や貧者にも、その可能性が開かれようとしているのだ。それは映画だけではない。働き方そのもの、キャリアそのものが誰しもの自己実現を満たしうる可能性が開かれているのだ。孤独や疎外を感じずに働き、社会のなかに役割を得て、そのことで自己実現を果たして喜びを得ることができる未来がありうる。
メリトクラシーを逸脱するビジョン
夢みたいな話だろうか。
わたしも短期間でここまでのユートピアが出現すると夢想してはいない。しかし、すでに劇的な変化は起きはじめている。
現在の社会を支えているメリトクラシー、テクノクラシーの構造がAIの進化によって破壊されるからだ。
経営共創基盤代表取締役CEOでベストセラーも多い冨山和彦氏は、近著である、その名も『ホワイトカラー消滅 私たちは働き方をどう変えるべきか』(NHK出版新書)で、三菱総合研究所のデータを引いて、2035年にはホワイトカラー(事務職)180万人が余剰となると述べている。これはもちろん、テクノロジーの進展によってDXが進み省力化・効率化のなかで生成AIによって仕事が代替されていくからだ。ことにグローバル化が進む業界においては、競争原理から省力化・効率化から逃れられるわけもなく、DXは加速している。
冨山氏は、むしろ観光業のようなローカル経済での経営力、リーダーシップこそが優秀人材のキャリアにとって優位となることや、エッセンシャルワーカーといわれる医療や介護、交通、運輸、インフラ、小売、農水産業に従事する人たちがより重要になると論じている。エッセンシャルワークとは、マズローの5段階説の「生理的欲求」「安全欲求」という人々の根本のニーズを満たす仕事である。これに従事する人材はホワイトカラーとは対照的に、今後ますます人手不足になることが予測されている。
ローカル経済におけるエッセンシャルワークでDXを推進して、付加価値の高い働き方を実現していかなければならないと氏はいう。こうした分野にグローバルでも活躍しうる優秀な人材が流入しなければ日本経済の浮揚はないというわけだ。
こうした人材を輩出するためには、現在の大学教育に留まらず、プロフェッショナル人材の育成に励まなければならないと氏は論じる。大学をG型(グローバル型)とL型(ローカル型)に分けて地域特化型の職業訓練校としてL型大学を充実させる必要をずっと訴えてきた氏の一貫した主張である。
わたしはただ冨山氏の主張とはやや違うものを見ている。これだけのエリートに物申すようで気が引けるのだが、氏のロジックはやはりメリトクラシー、テクノクラシーのなかでの勝ち残り戦略だからだ。職業訓練校の充実はつまりテクノクラート育成の重点化ということだ。
グローバル経済のなかで市場をいかに奪い、守っていくかは国力の点、国富の点では決して軽んじられるものではないことはよくわかる。あるいはリベラルな夢想家のように、幸福はそんなところにはないと嘯くのも白々しい。
わたしが考えているのは、生成AIを代表とするテクノロジーがこれまで活用しきれなかった潜在的な人材や、そのスキルを発掘して、高い付加価値を実現できるということだ。先のことばでいえば、現在の弱者や貧者をエンパワメントして、中間層へと膨らませることが生成AIならできるのではないかと考えているのだ。
AIよる民主化で弱者や貧者を解放し、彼らがただ楽しみのために働き、それが高付加価値の生産につながっていく。それはテクノロジーがあれば現実的なビジョンになりうるはずだ。
エンパワメントされる弱者
生成AIによってエンパワメントされる弱者や貧者を、わたしはドラえもんとのび太の関係だと考えている。
のび太は弱者の代表である。権威主義者のジャイアンと富裕層のスネ夫に対して大きな格差を抱えている。そんなのび太もドラえもんが四次元ポケットから出す道具によってエンパワメントされて格差を埋める。もちろん、おなじみでのび太は道具を悪用して、エンパワメントも水の泡に帰す。これは1話完結のコミックであればこそのオチであり、道具をうまく使いつづければ、のび太はみずからのポジションをアップさせていけるだろう。
ドラえもんの四次元ポケットはクラウドシステムのように場所を選ばずアクセスできるし、そこからでてくる道具はデジタルツールやアプリのように特定用途において他者との差異化を実現して──あるいは他者の優位を無化して──くれる。こうして、のび太という弱者はエンパワメントされる。
ドラえもんに喩えていくと冗談めいてくるが、最近、さかんに言われるようになっているAIエージェントの考え方はほとんどこの喩えの延長で説明できる。
『その仕事、AIエージェントがやっておきました。 ――ChatGPTの次に来る自律型AI革命』(技術評論社)のなかで、著者の西見公宏氏はAIエージェントの自律性について、メンフィス大学のスタン・フランクリンの論文の一節を引用する。
ドラえもんはのび太からの指示や依頼によって行動するわけではない。のび太の窮状を見かねて「もう、しょうがないなぁ……」などと言って、四次元ポケットを漁るわけだ。
これと同じようにAIエージェントはユーザーに自律的に対処していく。課題や問題に対して、必要なタスクを割り出し、タスクごとに必要なアプリやスキル(有名なAIエージェントBabyAGIではツールを「スキル」と呼ぶ)を呼び出して使用しアプトプットを創出していくのだ。BabyAGIの名をみてのとおり、このAIエージェントが目指すところはAGI(汎用人工知能)だ。
ここまで自律したテクノロジーがあれば、人材それぞれの汎用的なスキルや能力は個別差がなくなっていくしかないだろうか。ここでいう汎用的なスキルや能力とは、コミュニケーション能力とか文章力といわれるようなものである。
「意見はあっても会議でうまく発言できない」、「アイデアはあってもそれをうまく説明できない」、「仲間がいない、つくれない」などといった現在の社会の弱者にとって、AIエージェントが福音となることが、高付加価値を実現する社会につながるものだ。
たとえば、引きこもりの青年がAIエージェントを使って部屋から一歩も出ることなく企業を起こし経営するといったことはそんなに難しいことではなくなってくる。事実、『その仕事、AIエージェントが〜』では、複数のAIエージェントにそれぞれの役割を与えて組織化することで経営される架空のソフトウェア会社をつくろうという「ChatDev」なる取り込みも試みられている。
わたしは、人材資源のフル活用、再利用といった領域をAIエージェントが進化させていくことで既存のメリトクラシーに取り残されて苦しむ人たちを救えるのではないかと考えている。こうした人材の働き方が変化し、その隠れたスキルやアイデアを取り込むことで社会や組織はより柔軟で継続性のあるかたちにかわっていく。
この喩えがどこまで正しいか自信はないが、江戸時代の日本では近世以前からの制度や慣習を引き継ぎつつ、江戸や上方などの都市圏では多様な人材を社会に組み込む仕組みが見られた。社会的弱者とみなされる人々も、当時の身分制の枠内で一定の役割を果たし、生計を立てる道が制度的・慣習的に保障されていたのだ。落語には廃品回収のみを生業としたクズ屋が出てきたりする。あるいは時代小説や時代劇にも、当道座という盲人の自治的職能互助組織があり「検校」という高い地位の存在も登場する──勝新の映画「不知火検校」を思い出す。
もちろん、現在では考えられないほど苛烈な差別があったのも江戸時代であり、懐古主義として江戸時代の社会を見習えというほど短絡する気もないのだが、社会から人材を取りこぼさないで、そのことで高い付加価値を生む社会の仕組みがあったこともちゃんと見ておきたいのだ。現在社会で、これだけ取りこぼされる人が出ているとすればなおさらだ。
生成AIをすべての人々のものにするには、メリトクラシー、テクノクラシーの論理とはまたべつの論理が必要だろう。
メリトクラシーのなかで、生理的欲求や生存欲求だけをなんとか満たす(あるいは満たすこともままならない)潜在的に有用な人材を、テクノロジーの力で解放していく。
こうした人材が、社会に所属する場を見つけ、その地位を承認されるだけでなく、より新しい世界を喜びをもって切り開き自己実現していけるために、テクノロジーは民主化されなければならない。
AIエージェントが望むべき帰結に至るには、こうした視点こそが必要だと信じている。
と、ここまで書いた1月24日現在、OpenAIがAIエージェント「Operator」を発表し大きな話題となっている。いよいよ今年はAIエージェントが業務に導入されていくだろう。アーリーアダプターたちはすでにAIエージェントを使いはじめている。