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マスメディアは何に負けたのか? インテリジェンス・トラップとメリトクラシーの地獄

11月、ふたつの選挙結果がメディアを賑わせた。ドナルド・トランプがアメリカ大統領に、齋藤元彦氏が兵庫県知事にという、どちらも返り咲き当選だ。これらの結果は世の良識を代表するとされてきた知識人たちの眉を大いに顰ませるものであった。


保守VS.リベラルというストーリーの終焉?

11月5日、共和党候補のドナルド・トランプは激戦州も制覇して圧倒的な勝利でアメリカ大統領に返り咲きを決めた。前々回の2016年の選挙で当選し1期、大統領を務め、2020年の大統領選で民主党のジョー・バイデンに敗れたが、今回、民主党のカマラ・ハリスに対し大差の得票で勝利した。就任は2025年になるが、この11月の大きなニュースであった。
トランプと並べることはやや違和感があるが、もう一方の返り咲きは兵庫県知事の齋藤元彦氏である。こちらは、パワハラ、おねだりの疑惑が浮上し県職員の自殺もあって、地方自治法第100条に基づき地方議会が議決により設置する特別委員会が兵庫県議会に設置されて厳しい追及を受けた。ふつうであれば、このあたりで辞職という流れであったろうが、齋藤氏は「任期満了まで仕事したい」と職に留まったために、県議会で不信任決議が可決されて失職となった。それが9月30日のことである。
それから1カ月半後の11月17日、齋藤氏は誰もが予想しえなかった返り咲きを果たしてみせた。この間にはかつてみたことがないダイナミックなムーブメントが起き、終わってみれば前回の選挙を14.55ポイントも上回る投票率55.65%を記録し、齋藤氏自身も前回より25万票以上多い111万票を獲得した。2位の無所属ながら自民党と立憲民主党という呉越同舟めいた二大政党の支持者から応援があった前尼崎市長の稲村和美氏に、齋藤氏は13万票以上の差をつけた。
政治信条で、トランプと齋藤氏を比較、考察するのはあまり意味がないだろうが、このふたつの選挙にはよく似た印象を受けた。まず挙げられるのは、どちらもマスコミの予想──あるいは期待と言ってもいい──を大きく裏切る結果が出たことである。
選挙結果を報じるマスコミの困惑は、どこか歯切れの悪い弁解じみたコメンテーターたちの言葉に表れていた。
もうひとつは、両者を支えたのが都市部のエリート層というより、より下層の一般庶民だったということだ。いや、誤解されないように付言しておくが、都市部VS.山間部とかエリートVS.庶民といった、従来のリベラルVS. 保守という大きなストーリー軸はあまり感じられず、これまでとは様相の違う対立軸が明瞭に現れたようにも見えた。
大統領選では、多くのホワイトカラーのエリートたちが躊躇うことなくトランプを支持したし、齋藤氏も都市部で得票でも2位の稲村氏を上回る結果を得ているのだ。

反権威主義の権威主義者たち

今回の兵庫県知事選で当初、世間の耳目を引いたのは権力にしがみつくエリート知事の人間性への不審であり、そんな人物が己を省みることもなく再出馬した厚顔無恥への怒りや嘲笑であった。
ところが、ところが、である。こうした情勢が俄かに転じたのは、NHKから国民を守る党の党首でありYouTuberでもある立花孝志氏が立候補してからである。立花氏は「知事は既得権益にしがみつく守旧派に陥れられ、マスコミの煽動によって悪者にされただけだ」として、不信任決議について大いに疑問を呈してマスコミが触れてこなかった事実について大々的に情報発信を行なった。賛同するネット界隈の著名人たちもこれに倣い、兵庫県議会に対する批判を過激にしていった。
わたし自身のことを言っておけば、やはり当初は兵庫県知事にとんでもない不届者がいるという認識で、マスコミのみならずネットメディアまでが扱う“悪事”の数々を野次馬気分で眺めていたのは事実である。それ以上を調べようともせず、そこに表れた事象をよく観察することもせずに、だ。この点は自戒を込めて書いておく。
さて、11月17日の投開票日から1週間ほどで発生しているのは、「“悪徳”知事VS.県議会&善良な市民の“味方”としての大マスコミ」という対立構図から、「県議会&善良な市民を“騙す“マスコミVS.真実を詳らかにするSNS&大マスコミから弾かれた人」という対立構図への移行である。
アメリカ大統領選でもこれによく似た面があった。「CNNなどリベラルなマスコミ&社会意識の高いハリウッドセレブたちVS.トランプを応援したイーロン・マスクの所有するXなどのネット言論&バイデン政権のリベラルすぎる政策で荒廃する街から追われた庶民」といった構図だ。そのコメントを問題ありとしてトランプのアカウントを停止していたTwitterは、マスクに買収されてXとなりトップページにトランプを応援する動画が固定された。この影響なのか、マスクを支持するテックエリートの動きなのか、これまで民主党を支持してきた層も明確にトランプ支持を表明した。
ふたつの選挙にもうひとつ穿ったかたちで共通点を見つけるとすれば、それはトランプも齋藤氏もどちらもリベラルな政治信条をもつ女性候補に勝ったことである。この点は、ジェンダー問題もからむ可能性もあるので──ポストモダン的なポリティクスの現在地を論じることも可能だろうが──、これ以上は立ちいらない。
とはいえ、アメリカ全土と兵庫県で起きたことはリベラルの敗北だったと単純にまとめることはできないだろう。
では、何が何に負けたのか? 
繰り返すがトランプと齋藤氏に共通の政治性があるとは考えにくい。勝った側には多様性がある。政治性でいえば、雄弁で民衆煽動が得意なトランプとどちらかといえば寡黙ですらある齋藤氏は大きな違いがみてとれる。
トランプと齋藤氏に負けたのはいったい何か? 
それはおそらく知性と合理性を重んじ社会にとって正しい判断をできると自負し、そのうえ反権力の立場で少数派の正義を代弁できる、そう自認してきた人たちの敗北だったのではないだろうか。
こうした人たちはたいていが“社会正義”に目覚めリベラルな信条を堅固にしている。長年にわたって、あらゆる権威主義に反対してきた。反対を誇示する姿勢はほとんど権威的である。
反権威主義の権威主義者ともいえる皮肉な人たち。
このふたつの選挙は、そんな人たちを炙りだした。
反権威主義の権威主義者たちは、すでに自分の側にはない“正義”を振りかざし、 “弱者”を見誤ったために、トランプや齋藤氏と勝負する以前に自滅した。

メリトクラシーがもたらす“正義”感

政治哲学者のマイケル・サンデルが『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(鬼澤忍訳/早川書房)で論じたのは、リベラルな理念のもとに発達した能力主義(メリトクラシー)が現代社会の分断を深めていることだった。
封建時代の名残を引きずった身分制度・階級社会に変わる能力主義は「努力すれば報われる」「才能さえあれば認められる」という理念を押し進めた。生まれや育ちよりも、本人の努力が人生を決定する。持って生まれたもの以上に、生まれたあとに身につけたものが大事なのだという教えそのものは耳に清しい。
ところが、サンデルが解明していったように、能力主義の裏側に潜んでいるのは決して公正な競争ではない。
誰もが同じ点からスタートしているわけではないのだ。生まれつきの才能だけなら、スポーツや音楽の世界ではスタート時点で大きな差が発生しているのはお馴染みだ。これは社会や科学における才能でもほぼ同じだ。
もうひとつが育成環境の違いだ。経済的に裕福で教育熱心な親のもとに育つ子と、貧困層で子どもの未来より日々の暮らしに重きを置かざるを得ない家庭で育つ子とでは、とうぜん差がつく。塾や家庭教師といった教育投資の差のみならず、幼い頃から博物館、美術館、遠方旅行に連れていかれ、家には本に囲まれた居間があり、両親やその友人たちの知的な会話に囲まれて育つ子と、近所の悪童や怠惰な大人たちを日常で目にする環境で育つ子には、もって生まれたもの以上の差が出る。
こうした経済的背景や社会的資本の差を度外視して能力主義を信奉されたら、社会には歪みが出る。
才能に恵まれ、環境にも恵まれ、そのうえで努力も重ねることで、十分な収入を得られるようになったエリート層は、みずからは市場的(すなわち対価としての報酬)にも道徳的にも価値があると考えるようになる。非エリート層に対し、じゅうぶんに収入を得られず貧困に苦しんだり、社会的な地位を得られなかったりするのは、努力が足りないからだ、怠惰だったからだ、苦難を知らないからだと、エリート層は考えるようになる。
エリート層が知っている苦難とは、東アジアでも過酷に行われている受験戦争である。自分が選ばれるための戦いは、選ばれないことの苦痛に真から怯えさせプレッシャーとなって襲ってくる。
SAT(大学進学適性試験)を潜り抜け、一流大学への入学を果たした若者の多くが、燃え尽き症候群に陥ったり、ノイローゼになったり、アルコールや薬物に依存したりする例をサンデルは紹介している。
こうした能力主義の桎梏は大学入学をもって終焉するわけではない。入学後もそして卒業後も、この過酷な戦いは継続する。
SATが示した数値が入学前の自分の価値ならば、学生時代の価値は成績になり、卒業後のそれは収入に表れるわけである。
エリート層が自己正当化、みずからの“正義”を絶対化するのはこれだけの期間があるのだ。何も幼児的な万能感によって彼らはみずからの“正義”を誇っているわけではない。
非エリートなわたしたちは得てしてこの点を誤解する。なんの苦労も知らず、親の助けでいい稼ぎをしやがって、と。対してエリート層は努力も知らずプレッシャーも知らずに能天気に生きてきて貧困だから保護してくれなんて勝手を言うのもいい加減にしてくれ、と。
こうして分断はますます深まっていく。

「古い“反権力的正義” と新しい“反権力的正義”」の対立

サンデルの『実力も運のうち』の原書がアメリカで刊行されたのは、トランプが大統領に初当選したタイミングである。同書でサンデルは、かつて都市圏のエリート層は共和党を支持してきたが、やがて同じ層が民主党を支持層するようになっていった変遷を述べている。

二◯世紀の大半を通じて、左派政党は学歴の低い人々を、右派政党は学歴の高い人びとを惹きつけたものだった。能力主義の時代には、このパターンが逆転してしまった。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

2016年の大統領選では、大学の学位を持たない白人の3分の2が右派共和党のトランプに投票し、学士号より上の学位をもつ有権者の実に70%の得票を得たのは左派民主党のヒラリー・クリントンのほうだった。
しかし、この傾向も今回の大統領選ではさらに様変わりしているようにみえる。都市圏のエリート層がトランプ支持にまわったようなのだ。バイデンの政策を能力主義の勝者たる都市圏のエリートが嫌ったのだ。端的には、移民や貧困層への分厚い保護が先に述べたような彼らの“正義”に適わないのだ。彼らは自由競争の勝者でもある。みずからの努力なく移民というだけで国の支援を受けるのは間違っていることになる。
トランプの支持層をエリート、非エリートで分けるのももはやナンセンスかもしれない。移民や貧困層への国の支援によって職場を奪われ、住居さえ奪われた非エリート層も、その多くがトランプを支持した。これが都市部のエリート層の票と相まって圧勝劇をもたらした。
先に述べておいたように、アメリカでもかつての対立構造が壊れている。
トランプの当選が決まった際、ハリス支持を表明していたハリウッドのセレブたちはこぞってトランプの当選を間違ったことといい、学歴のない人たちがデマゴークにまんまと騙されたのと罵った。ほとんど、それは上から目線で、権威的であった。
同じように日本でも、兵庫県知事選の結果をうけて、大マスコミ(オールドメディア!?)のコメンテーターの何人かが、メディアリテラシーの低い人たちがネットのデマに踊らされたのだと論じた。これもまた得てして権威的に響くものだった。
ここまででわたしが論じられるのは、わたしたちは能力主義の社会でのし上がり社会の権力側についた人たち(県議会、マスメディア)のいう“正しさ”がお為ごかしでしかないことに気づいたということだ。
対立軸にあるのは「古い権力と新しい勢力」というより、「古い“反権力”と新しい“反権力”」なのではないか。もっといえば、「古い“反権力的正義” と新しい“反権力的正義”」の対立。あるいは「古い“被害者”と新しい“被害者”」の対立。
被害者だったみずからがいつしか加害者であったというような意外に、アメリカの民主党支持者も日本のマスコミもみなが驚き、理解不能になっているようなのだ。

メリトクラシーとテクノクラシー

サンデルが描いた能力主義の社会を早くも1958年の時点で予言していた本がある。イギリスの社会運動家であり、社会学者であるマイケル・ヤングの『メリトクラシー(The Rise of the Meritocracy)』(窪田鎮夫、山元卯一郎訳/講談社エディトリアル)である。知能や努力によって評価され厳格な階層ができた2034年の社会を描くSF小説だ。
この時代の未来を描くイギリスのSF小説といえばオーウェルの『1984』(高橋和久訳/ハヤカワepi文庫)がすぐにでも想起されるし、計画管理されたディストピア社会という意味では共通点もあるのだが、『メリトクラシー』のほうは主人公はおろか登場人物がいない評論風の文体で能力主義社会の勃興から衰退までの歴史を辿る。
「土壌は身分をつくり、機械は階級をつくる」とは、そのなかの一節だが、農業社会が産業革命を経て工業社会となり、機械化による商業的成功は親から子へ財産として相続され、地位と権力は血縁から離れて能力ある者から能力ある者へと引き継がれていく。
そうなると、親は子どもに高等な教育を施し能力を誇示しやすい専門職への道を歩ませるようになる。自身の能力を次世代に再生産するためにIQ(知能指数)の高い結婚相手を求める。封建時代に家柄の良い者同士が結婚したように。
能力主義はテクノクラシー(専門技術者が政治経済を司る社会)と結びつき、人をIQと専門における実績で評価していく。当然のように、社会は専門家しかいない上層と、専門を持たないIQの低い下層に分断されていく。さらには幼児の時点ですでに将来の能力の限界値を測定されて、キャリア──いや人生そのもの──を限定されてしまう。将来の貧困や犯罪の確率を測定されて、社会の外部に排除されるのだ。たとえば、少年期に低評価されてしまった人たちは、晩成型であったとしても下層に取り残される。
この犯罪予測の部分はどこかアニメの『PSYCHO-PASS サイコパス』(虚淵玄原案/本広克行総監督)に登場する人間のあらゆる心理状態や性格傾向を数値化する「シビュラシステム」を思い出す仕立てである。
『メリトクラシー』は1958年に書かれたということもあって女性の能力や認識に非常に古臭い箇所が散見される点に目を瞑れば、サンデルの『実力も運のうち』の続編かと思うほど、現代性と現実味がある。この能力主義社会は能力と努力によって上層はみずからを正当化し、下層は努力が報われない社会に不満を抱いている。
『メリトクラシー』では終盤、婦人運動を契機として一般大衆を巻き込むデモが起きる。普通の小説ならここからクライマックスとして革命やら暴動がありそうなものだが、デモが要求するところは年功や経験による序列や、成人教育センターの整備──これは晩成型の能力を救う──、伝統への回帰なのだ。小説の2034年にはいささか郷愁を呼ぶような制度の復活なのだ。
2024年の現在から、サンデルの『実力も運のうち』と続けて読めば、ほとんど今回のふたつの選挙の現れた変化を汲みとって描かれた社会評論のようでさえある。

知識人たちの「精神勝利法」

能力といえば端的にIQを指すことも珍しくない。IQが高ければ能力が高いという考えは根強くある。トランプは前回の選挙戦でみずからのIQ の高さをいい、それをもって能力の高さを誇示した。
しかし、IQなるものがどこまで信用に足るものなのか。メリトクラシーに問題点だけなく、良い部分があるとしても、その能力測定の基礎にIQをおくのは不審を感じさせる。
ジャーナリストのデビット・ロブソンは『インテリジェンス・トラップ なぜ、賢い人ほど愚かな決断を下すのか』(土方奈美訳/日経BP)で、その危うさ、滑稽さを指摘している。現在のIQテストの基礎となったスタンフォード・ビネー知能検査を開発したルイス・ターマンの行った長期にわたる調査からも、高IQの子供たちが決して能力に恵まれ豊かな人生を歩んだと言えない点を論じていく。
IQテストの問題でまず目につくところは、それが合理的な推論の能力に重点を置きすぎており、実務的知能や創造的知能を等閑視してしまっていることだ。
現在の社会への影響が色濃く残っているとして、ロブソンはこう述べる。

たとえばアメリカで、大学入試に使われる「大学進学適正試験(SAT)」は、ターマンの1920年代の研究に直接的影響を受けている。質問のスタイルは当時と変わったかもしれないが、そこで測られるのは、事実を記憶する、抽象的ルールに従う、豊富な語彙を身につける、パターンを見抜くといった能力であり、これを姿を変えたIQテストと見る心理学者もいる。

『インテリジェンス・トラップ なぜ、賢い人ほど愚かな決断を下すのか』

現在の日本でもあらゆるかたちで適正テストや能力試験があり、それらの基礎にあるのはターマンの知能への見識なのである。
ところが奇妙なことに、こうしたテストや試験で能力に保証を得た人びとに限って、恐ろしいほどの偏見に絡まり、ありえない誤謬に陥り、あまつさえそれを誇示して他の人に押し付けて恥じるところがない。
ロブソンは多くの事例を示す。シャーロック・ホームズの生みの親であるアーサー・コナン・ドイルが心霊術や超常現象を信じきっており、その作品で十二分に発揮された科学的合理性を駆使して自己の正当化を進める。あるいは、自然科学のノーベル賞学者がトンデモ論を論じていたり、ノーベル経済学賞学者がハニートラップにひっかかっているにもかかわらず、その女性に恋焦がれ続けていたり、賢い愚か者の例は世界中に枚挙にいとまがない。
ロブソンはこうした愚挙を知識人たちの(自分の価値観にそった見方に固執する戦術となる)マイサイド・バイアスが原因になっていると論じる。
実務的知能や創造的知能に欠け、「動機づけられた推論」によって自分都合に事実を解釈し、合理性を見誤る「合理性障害」が、知識人たちの目を曇らせ、心を頑なにしている。この傾向は専門知識をもつことによってさらに強固になり、無意識に刷り込まれる「専門知識の逆襲」によって、バイアスの影響を受けやすくしてしまう。そのせいでリスクに盲目となり大惨事さえ招く。
その最新の例はもしかすると、今回のふたつの選挙で敗戦した側の勝利を予想していた知識人、セレブたちの見苦しいコメントに現れているかもしれない。
大衆が陰謀論に騙されていると指摘し、洗脳されていると憂いてみせる。その現実離れした論理こそ、なにか裏に別の意図があるのではと思わせるほど拙いものだ。現実を受け入れることができないので、自分の“正義”を疑うことがない。かえって、相手の問題にすり替える。その様子は、魯迅の小説『阿Q正伝』(増田渉訳/角川文庫)の主人公・阿Qの「精神勝利法」のようでさえある。プライドを慰める以外には役に立たない弁説をふるいつづけているようにみえるからだ。
ロブソンは「知能は真実追求ではなく、プロパガンダ(主義主張の宣伝)のツール」だというが、まさにそれこそ、高い見識を誇っていたはずの知識人、セレブたちがやっていることにほかならない。ただ、そのプロパガンダは今回、古い“被害者”を新しい“加害者”に見せるだけの効果を発揮したようだ。

地獄への道は“◯◯力”で舗装されている

わたしは現代社会で誰もが感じる疎外感、孤独感について折節、論じてきた。その原因の背景には近代化があり、近代化がもたらしたテクノロジーが資本主義を励まし、都市に人口を集中させて競争を激化させてきたことがあると考えている。
だからこそIT批評であり、テクノロジーと近代の問題なのだ。
こうした国内の問題をメリトクラシーの点から誰でもわかりやすく共感を得られるかたちで提起しているのが勅使河原真衣氏である。デビュー作である『「能力」の生きづらさをほぐす』(磯野真穂解説/どく社)はタイトルからしてズバリなのだが、現在、わたしたちは職場で徹底的に能力を測られている。VUCAと言われ先行きの見えない時代に企業が不安を感じれば感じるほど、人は測られ競争を促される。その測定の基準は、IQを基礎とする能力や、わかりやすい見栄えを与えてくれる学歴をも超えて、コミュニケーションだのリーダーシップだのといった“性格”までを能力として測定対象にされて、わたしたちは職場で丸裸にされる。それを苦にしない人のほうが本当は珍しいはずなのに、それを苦だということが憚られる。わたしたちはどうしてここまでして自分たちの職場をせっせと地獄に変えているのだろう?
ダイバーシティ&インクルージョンを高らかにいいながら、さまざまなテストや試験、面談を通じて、職場の空気に馴染まない人を排除していく仕組みが巧妙に構築されているのが現在なのだ。排除の理屈は簡単だ。「スキルはあるんだけど、コミュニケーション力が不足している」「経験はあるんだけど、リーダーシップが欠けている」となる。マイサイド・バイアスのもとに評価すれば間違いなく評価者の求める測定結果を得られる。
だいたいコミュニケーションは片側の問題であると考えること自体が浅薄──コミュニケーションは二人以上でなければ成立しない──だ。
こうした客観評価や絶対評価ではなく情動的で人格的な評価を求める社会を、教育学者の本田由紀は2005年に『多元化する「能力」と日本社会―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』 (NTT出版)上梓して以来、「ハイパー・メリトクラシー」と呼んでいる。昔は、学力だけ気にしていればよかったのに、学力だけでは対応できない能力が求められるようになっていると論じた。それは現在の社会に見事に当てはまっている。本田は、「ライフスキル」のような形式化や言語化が難しい能力が競争の武器になっていく時代を読み解いていた。
そういえば、この時代あたりから「◯◯力」とか「◯◯する力」というタイトルの書籍が多く刊行されるようになったことも思い出す。

多様性というニヒリズムの入り口

近代の生きづらさについて、前回は、カール・ポランニーとフリードリヒ・ハイエクの思想的対比を眺めつつ、それぞれの理想から安定した社会制度の実現を目指し技術革新と試行錯誤を繰り返して進んできた歴史をみた。
政府の干渉を最小限にして自由市場を推進することこそ社会は自律的に安定すると論じたハイエクと、市場の自由化が社会の不安定を引き起こすと指摘したカール・ポランニーのそれぞれの思想は揺れ動きながら相互に影響をしあっているようにも思える。
ハイエクのいう自由市場は競争を求める。競争は革新を求める。革新には人の能力が不可欠であり、テクノロジーの進化はイノベーションの一大側面として絶対的なものになってくる。そうしてメリトクラシーは強化されていっており、わたしたちの疎外感と孤独感は深まっていく。
ところで、カール・ポランニーには高名な弟があった。物理学だけでなく経済学、科学哲学で業績のあるマイケル・ポランニーである。マイケル・ポランニーを有名にしているのは「暗黙知」の概念だ。
「暗黙知」とは“知ってはいるが言葉にできない”知識である。よく例にだされるのは、自転車の乗り方だ。自転車に乗ることができる人でも、それを言葉で説明できる人はほとんどいない。翻っていえば、言葉にできないことに知識や思考が潜んでいるということだ。
マイケル・ポランニーは『暗黙知の次元』(髙橋勇夫訳/ちくま学気文庫)の第1章で「私たちは言葉にできるより多くのことを知っている」と述べる。わたしたちはいつも言葉にできる以上のことを理解している。近代化によって、機械的な人間観や歴史観が科学そのものさえ依って立つ場を失うほど、思考の力を失いつつあるとマイケル・ポランニーは論じている。わたしたちは言葉にできない能力(暗黙知)によって、科学的な発見を導き、人間らしい社会を築いてきた。暗黙知を無視することは、そもそも知性の根底にあるものを否定することにほかならない。このあたりはベルグソンの学習Ⅲにも通底する考えのように思えるし、わたしが神秘主義哲学を持ち出して述べたこと(#46 テクノ・リバタリアンから神秘哲学へ)にも通じている。
マイケル・ポランニーは『暗黙知の次元』の結論で、暗黙知として重要なもののひとつとして、キリスト教の伝統や信仰をあげる。近代科学が捨ててしまったキリスト教の伝統や信仰に価値を見出していた。科学的合理性にもとづいて価値の多様性や意味の相対性を認めることはニーチェのいうニヒリズムに陥る入口でもある。すべての事象に同等の価値があるとすれば、わたしたちは何も選べなくなる。それがニヒリズムのきっかけになる。
神の死によって現れたニヒリズムを乗り越えるのもまた神ということだと、マイケル・ポランニーはいわんとしているのではないのか。

AIは何によって人を救うか?

経済学者としてのマイケル・ポランニーは、兄カールと同様に自由主義を問題視した。それは自由主義の行き着くところが価値の多様性や意味の相対性の許容によってニヒリズムに陥るからだ。事実、本田由紀のハイパー・メリトクラシーのように、人の能力を極限まで多様化すれば、能力が人の何を示すものかさえわからなくなってしまう。これほどのニヒリズムのなかで働けば、わたしたちは苦しみしか得られなくなる。なぜならば、どこにも答えがないからだ。
前回、述べたように兄のカール・ポランニーは人間性の商品化を非難した。同様に弟マイケルは価値の多様性や意味の相対性を批判する。とはいえ、この二人は経済思想的に鋭く対立した。弟マイケルが重要視するのは「自生的秩序」、つまり個々人の暗黙知に基づく自由な経済活動だ。人々には言葉にできない暗黙知があり、それを形式によって管理すれば、市場の柔軟性が失われてしまう。兄のカールはソビエトの体制を擁護したように、計画的に管理された秩序を重要視していたのだから、大きな対立が生まれた。
ここまで読んで、今後、「暗黙知」がAIや情報科学に取り込まれ“商品化”されうることに思い当たる人もいるかもしれない。事実、国内企業各社は熟練技術者の暗黙知のデータ化を進めている。しかし、そこには大きな壁が立ちはだかっている。
“知っているが言葉にできない”知識とは、熟練技術者本人でさえ潜在的にしか認識していないからだ。まず情報科学の対象にするのにかなりの手間と知恵がかかると想像される。倫理となりうる知識であり知恵が暗黙知の根幹にあると考えている。だからこそ、マイケル・ポランニーは信仰や伝統を重んじた。熟練技術者の暗黙知としてのスキルは、おそらく彼らの職業倫理と密接に関係している。
そのうえで付記しておけば、日本のビジネス界でいわれる場合の「暗黙知」は必ずしもマイケル・ポランニーが定義したものとは一致しない。経済学者の佐藤光は『マイケル・ポランニー 「暗黙知」と自由の哲学』(講談社選書メチエ)で、日本の著名な経営学者・野中郁次郎が暗黙知の理論を世俗化しすぎているという批判があることを紹介している。経営学でのこうした用い方を鋭く批判する声もあるという。
勅使河原真衣氏が近著『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社新書)で述べたように、現在、適性検査の分野へもAIの進出が著しい。AIによって、能力の見える化を図っているというわけだ。
これでは、エリート層はますます測定される科目を増やされて競争はよりトリビアルで息苦しいものになるかもしれない。その競争に勝ち残っても、身に付くのは堅固なだけの勝者の“正義”と道徳ばかりだろう。
わたしが考えているのは、そうした点をケアするAIの活用だ。
メリトクラシーを乗り越えるものとしてサンデルは「道徳性豊かな政治」や「共通善にもとづく政治」を述べ、マイケル・ヤングの『メリトクラシー』では伝統への回帰が結末となり、ロブソンは『インテリジェンス・トラップ』のなかで知的な謙虚さの重要性を繰り返し論じて知能ではなく知恵こそが必要だといい、マイケル・ポランニーはキリスト教の信仰が指針になると論じる。
わたしは、これからのAIが学習するのは暗黙知のみならず、知恵でなければならないと考えている。古老の知恵であり、慢心と断定こそ知識の敵とみなす生き方の方法であるべきだと思っている。
生きづらい人たち、職場で傷ついている人たちを慰め救う知恵をもち、今一度、人と人の関係としての社会を考え直すヒントを与えてくれるテクノロジーが、このメリトクラシーがもたらした不毛な分断を修復し、わたしたちを癒してくれるのだ。
数値に現れる優秀さと正義の履き違えをそっと正してくれるAI。決して合理性の押しつけではなく、みずからに気づかせることで導くテクノロジーが、そろそろでてきてもいい時代のはずだ。

昨今の生成AIブーム以降に起きている、AIに仕事を奪われるのはブルーカラーではなくホワイトカラーだという論は、こうした考えを補強するものかもしれない。なんとなれば、これまでのメリトクラシーで勝者だった者たちこそAIにとって変わられ、むしろAIはこれまでの社会でうまく活躍の場を得られなかった者たちの武器になりうるからだ。
それこそが孤独と疎外をもたらしたテクノロジーの近代の先に現れるポスト近代であってほしい。そう願っている。

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