労働はなぜわたしたちを不調にするのか? 無力感の果ての「働き方」改革
コロナ禍によってリモートワークが定着しはじめている。以前から議論となっていた働き方改革を加速させる様相だ。わたしたちはずっと心理的な不調に襲われている。この不調の原因はどこにあるのだろうか。癒されうるのだろうか。
メタ視点をメタ視点で見るというような無限性
前回の最後、斉藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書)が、あれほどまでに資本主義を鋭く批判しながら話題の書となり売上を伸ばしていることを皮肉に受け取ってみせた。新進気鋭の思想家らしさこそが話題の中心にあり、書籍の内容以上に重要な意味をもつものではないか、と。
そんなことを書いて思い出した言葉がある。「再帰的無能感」という。これはマーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』(セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳/堀之内出版)で使用したタームだ。それは、たとえば無限なマトリョーシカがあるとすれば、わたしたちが味わうはずの感覚。
『「(マトリョーシカ)の内のマトリョーシカ」の内のマトリョーシカ』の内のマト……という無限の入れ子構造がもたらす無力感。それが再帰的無能感だ。メタ視点をメタ視点で見るというような無限性ともいっていいだろう。どんなに資本主義を批判しても、それさえ資本主義に貢献してしまう。より本質を穿つ批判をしてやろうとしたって無駄だ。きっとそれもまた資本主義に貢献してしまうからだ。
Amazonの『資本主義リアリズム』のレビューに、次のようなものがあったのは象徴的だ。長いが引用してみよう。
わたしにすれば、こういうレビューをAmazonにアップすることもまさしく資本主義リアリズムの実践ではないかと思う。価格をある種の審級にするのは、資本主義リアリズム以外にはありえない(高ければ罪というのは浅はかだ)。
こんな終わることのない連鎖を内包してしまった社会をマーク・フィッシャーは、社会主義リアリズムに対して「資本主義リアリズム」と称したのだ。社会主義リアリズムがその初めに非権力の労働者の芸術と定義されながら、結局は権力に都合のよいものでしかなかったように、資本主義リアリズムは民主的で自由であるはずの世界をどんどん非民主的で不自由なものにしようとしている。資本主義の悪弊を取り除くために、資本主義に頼らざるえない現在のあらゆる事象を見れば、それ以上の答はないだろう。
だからマーク・フィッシャーはいう。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」と。
病んだのは個人なのか? 社会なのか?
マーク・フィッシャーは長い間、うつ病に苦しんだ果てに自死を遂げた。彼はずっとうつ病を個人の責任に帰す社会へ疑問を呈していた。
うつ病は、個人の気質や性格によるものであろうか?
うつ病の回復が今でも社会への復帰によってしか客観的には評価されないように、わたしたちはうつ病などの気質を持つ者を社会から疎外している。学習障害だのADHDだのと症状として名を与えることで、個人に原因を求めて社会的に異質と烙印する。病んでいるのは社会のほうかもしれないのに、だ。こうした個人を、社会に受け入れよう、社会で見守ろうという考え方そのものが疎外のなによりもの証拠だ。誤解のないように言うが、わたしはそういった活動を批判してはいない。
病んでいるのは社会や会社のほうだとしたら、わたしたちになにができるか。そう問うことは、人の幸福とはなにかを問うに等しいかもしれない。
病んでいるのは会社だとリカルド・セムラーなら言うだろう。常識はずれの組織をつくったブラジル人経営者だ。10年も前から注目される彼の経営方法は、彼の著書『奇跡の経営 一週間毎日が週末発想のススメ』(岩元貴久翻訳/総合法令出版)の劈頭で述べているように、「世界で論争を巻き起こす」ものだ。
その組織には、経営計画も組織図も階層も人事部もない。すべての情報がフルでオープンにされ、給与さえ従業員同士の話し合いで決められる。CEOも短年期で交代を繰り返す。
ガバナンス(企業統治)やコンプライアンス(法令遵守)などということが企業に対し煩くいわれるようになった、まさにその頃、組織管理をほぼ行わないセムラーのやり方が注目を浴びるようになった。
今でも、会社を管理しないという考え方はほとんど受け入れらないだろう。企業組織の定義そのものを無化する考えだからだ。しかし、そんな彼の会社は成長をつづけ世界的な企業にまでなっている。とすれば、セムラーのやり方は企業とも経営とも呼ぶべきでない。まったく別のなにかかもしれない。企業とは仕組みづくりだというほうが一般的なはずだ。マーケティングは売り方の仕組みづくりだし、人事は従業員管理の仕組みづくりだ。組織全体が利益をあげるための仕組みなのだ。仕組みを一切つくらずに企業が成り立つのだとしたら、企業にとって利益より大切なものがあるといえるのか?
セムラーはそれを従業員の幸せだという。
セムラーの方法には、現在の企業にも(だからこそ)蔓延ってしまった「再帰的無能感」を打破するヒントがある。
器官なき組織体は生きつづけられるのか?
一昨年、ビジネス書としても異例、592ページという大部の翻訳書としても異例の大ヒットを飛ばした『ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(嘉村賢州、鈴木立哉訳/英治出版)で、著者のフレデリック・ラルーは発達心理学にもとづいて、組織を5段階のパラダイムに分類した。
すなわち、①原始的な弱肉強食で権力を争う「レッド(衝動)型」、②軍隊や宗教のような階層をもつ「アンバー(伝統)型」、③経済成長を担う営利団体のような実力主義の「オレンジ(達成)型」、④多様な価値観を認め合い調和を促す「グリーン(多元)型」、そして⑤個人と組織を解放する「ティール(進化)型」の5つである。
組織あるいは組織に属する個人にもたらされる利益に対するパラダイムをまったく異にするティール(進化)型の企業は、先に述べたセムラーを代表にいくつかが挙げられる。たとえばオランダの看護婦派遣の会社であるビュートゾルフにも、わたしたちが考える企業体の器官らしい器官はおよそ存在しない。それでもビュートゾルフは急成長している。
硬直した頭ではセムラーにしてもビュートゾルフにしてもなぜ成長をつづけているのか理解しがたい。インセンティブもペナルティもなく人は働くのか。管理や仕組みのなさに人は迷わないのか。
ティール型組織の要素として、ラルーは「自主性」「全体性」「目的」の3点をあげる。従業員が個々の仕事を自主的に行い、能力や成果だけでなく個性や習慣もふくめて人間性の全体が評価され、組織の目的自体が従業員の成長とともに進化していく。
口で言うのは簡単だが、わたしたちのなかに根付いてしまった組織あるいはその構成員に対するある種の不信が頭をもたげざるをえない。
従業員の自主性なんてアテにならないし、成果を評価しないと数字が落ちるだろう、みんなが頭に入れた組織の目的がないとバラバラになる。
そう思っているはずだ。
仕事はいつから「労働」と化したのか?
わたしが考えたのはハンナ・アレントが『人間の条件』(志水速雄訳/ちくま学芸文庫)で論じた内容だ。そこにティール組織を理解するヒントがある。
アレントは人間の働きを「労働」と「仕事」と「活動」の3つに分類している。「労働」は必要に応じて発生する(衣食住にまつわる)家事、「仕事」は未来に向けて何かを創りだし生みだす制作、「活動」は社会的な役割や振る舞いである政治を指す。
近代社会では、このうち「労働」が「仕事」と「活動」の領域を侵犯していく。近代社会は全体を連動させて、人間の働きのほとんどを社会にとって必要なものに変えていく。それが「労働」が「仕事」と「活動」の領域を侵犯していく実相だ。
アーレントはいう。「労働」とは必要性の奴隷になることだと。
ここでラルーの議論に戻れば、ティール型以前、人間が組織(社会)に求められていたのはアレントのいう労働に他ならない。必要性に応じて働くほかに働くことができなかったともいえるだろう。需要がなければなにも生じなかったというわけだ。
これがティール型になると、アレントがいう「仕事」が現れてくる。必要性を気にすることなく未来を創りだす働きをみずから進んで行うからだ。その評価は、必要性という基準をもたないので、複合的で多様なものになる。ちょうど芸術がそういう評価しかうけつけないように。
近代がわたしたちを労働の奴隷にした
アレントは、近代社会がこうなった原因として、キリスト教の労働観がギリシャ・ローマの労働観を転換したからだという。ギリシャ・ローマで軽蔑され奴隷のものとされた労働を、キリスト教が聖なるものとしたのだ。
この流れでもっとも力強く近代社会を、あるいは資本主義を駆動したのは宗教改革によるプロテスタントの台頭にあると述べたのは、マックス・ウェーバーの古典的名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(中山元訳/日経BP)である。
プロテスタントの禁欲が資本主義に不可欠な貯蓄を、その予定説が天職に熱心に取り組むという勤勉を促進した。この生活規範が人々の合理的な献身を励まし、世界中でまず先にオランダやイギリスといった新教国家に資本主義社会が出現した理由だという。
プロテスタントの価値観は、天国に召喚される証明として労働(天職)に埋没し奴隷となることをよしとした。これがアレントとウェーバーから読み取れる見立てだ。
プロテスタントはおろかキリスト教の信仰さえ薄い日本では、浄土宗系の労働観がこれを代替したとわたしは考えている。あまりに話が逸れるので別稿に譲るが、日本人の労働観にも献身が潜んでいることは確かだろう。修行や努力といったものは今も職業倫理のままだ。
わたしたちは生活規範と職業倫理によってますます労働の奴隷になっていったのだが、紙幅が尽きてきた。
また、いずれ続きを述べたい。