【どうぶつほらばなし】人間ひっかく(『ねこにまつわる10のはなし』より)
人間ひっかく
また同じような本を買ってきた。
クロは聞こえぬように舌打ちをする。
本の積み重なる部屋に十年も暮らせば、埃の匂いでどんな中身かだいたい分かる。
大事そうに抱えた袋から漂ってくるのは、いうなれば中心だけが熟れ進んだような果実の匂い。間違いなく主が心酔する作家のものだ。
この匂いに主はやられてる。
主人公は俺だ。思いのままに生きられず、自堕落でいるこの俺だ__。
それは違うとクロは思う。
主が酔ったデカダンは、上(じょう)だったものが落ちてこそ生まれる悲哀や美学なわけで、六畳一間の主ではもとより落ちる先がない。
つまり退廃を身に纏いさまになるためには、ある種の資格が必要なのだ。
残念ながら我が主では、どれだけ本を読み込んでにわか文士を気取ろうが、身から漂うは古本の埃がせいぜい。あこがれの作者が持っていたであろう崩れた香気のごときものなど出せるはずもない。
だから女も寄ってこない。
いったい何度目なのか、先刻から主が泣きながら写真を燃やしてる。
おおかたまたカフェの女給にでも自分の理想をおっかぶせた挙句、真実の彼女を知り勝手に裏切られたと傷ついたのだろう。
いつまで経っても相手のことを見ているようで見えてない。まったく猫より目が悪い。
そろそろ本にまで火がつきそうだ。
仕方ない。まず爪を打ち込み目を覚まさせて、それからすこし慰めてやろう。
世の中にはどうしようもない男しか愛せぬ女もいるという。
いつか出会えればいいな。 猫以外のそういう相手に。
背中を撫でさせてやりながらクロは目を閉じそう思った。
私家版きりえ画文集『ねこにまつわる10のはなし』(2015・完売)第7話。
『きりえや偽本大全』(現代書館)おまけページ掲載のものに加筆。
〈余〉
偽本シリーズ中不動の人気作から派生した作品。
こちらのあらすじが、そのまま本文冒頭にある引用部分となっています。
ブックカバー『人間ひっかく』の内容は、書き下ろし脚注コラム付きで偽本シリーズ1冊目の『きりえや偽本大全』に収録されています。
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