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教育学研究において、量的/質的という枠を超えて、自分の研究スタンスをどう確立していくか。
教育学研究において、量的/質的という枠を超えて、どのように自分の研究スタンスを確立していくか。これは、院生なら誰しも一度は考える、というかぶつかる問題だと思う。自分自身のスタンスは、教育的営みを量的研究のみで語ることはできないし、かといって質的研究だけで語ることもできないので、その両方を志向する必要があるよね、というどっちつかずという感じがしている。特に自分の研究領域だと、量的研究が圧倒的に優位なので、質的に記述していくことの重要性に重きを置きたい、という感じである[1]。
ガート・ビースタのトランザクション的認識論
このような問いについて、ガート・ビースタ著 亘理陽一・神吉宇一・川村拓也・南浦涼介 訳『よい教育研究とはなにか』明石書店 2024年 では、表象的認識論とトランザクション的認識論の違いとして説明されている。
表象的認識論では知識はそれを持っている人から独立し、その人からの影響は一切受けない、世界の写し絵として見られる(デューイが「傍観者的視点」の知識と名づけた考え方だ)。しかし実際は、実験は常に世界への「介入」である。
重要なことは、知識とは何であり、そしてそれはどのように得られるかということをきちんと理解したうえで実験というものを真剣に解釈するならば、私たちは知識を静的で観察者から独立した現実であるとする知識の傍観者的視点を手放し、実験から得られる知識は「関係性」についての知識、より正確に言えば、(私たちの)行動と(それらの)結果の間の関係性についての知識であるという事実を認めなければならない。「表象的」認識論とは区別して、私たちはこれを「トランザクション的」認識論と呼ぶことができる(Biesta & Burbules 2003)。
表象的認識論においては、何が役に立つかという知識は「未来」にまでつながる。つまり、ありのままの現実そのものについての完璧な知識を手に入れたとすれば、その知識は未来永劫変わらないはずと考えるのである。一方、トランザクション的認識論の考え方では私たちの知っていることは全て「過去」に観察された行為と結果の関係性に関することであるとされる。表象的認識論は私たちに「確信」を与えてくれるのに対し、実験を真剣に捉えることができるトランザクション的認識論は過去にどのようなことが「可能」であったかを示し、そこには過去に可能であったことが未来でもまた起こるという保証はいっさいないのである。
社会的領域では介入は機械論的あるいは決定論的には効果を生み出さないということ、そして、実践上の問題ではなく構造上の問題として開かれたプロセスを通じて介入が機能するので、介入と効果のつながりは非直線的であり、よくてもせいぜい確率論的でしかないということである。
ビースタはここで、教育を因果関係モデルで説明することの困難さについて議論をしている。因果で語るためには、原因となる要素と介入を厳しく統制する必要があるが、こと人間の営みにおいてはそれは難しい。因果ではなく因縁で見ようという提案である。
研究とは、一般化可能で因果関係を説明するモデルを生み出すことだけではない。このスタンスが取れるかどうかで、自分の教育研究観は大きく変わってくると言える。
ビースタは本書のなかで、研究には「説明・理解・解放」という3つの役割があると述べている。
教育や社会に関する研究にとってより重要な問題は、教育のような人間を対象とした現象にも同じようにアプローチできるかどうか、つまり、人間の行動領域においても原因と結果の間に強い結びつきがあると仮定することが妥当かどうかということである。
(中略)
研究には異なる目的が必要であることを示唆している。その目的とは、因果関係を「説明」することではなく、人間の行動を支配する理由を「理解」しようとすることである。説明というものを後ろ盾にしたときの理論の役割が、ある出来事がなぜ因果の連鎖の中で起こるのかをもっともらしく述べることだとすれば、人間の行動を理解しようとする研究における理論の役割は、何よりもまず、人々の視点と解釈の再構築を通じて、人々がなぜそのように行動するのかについて納得できるようにすることである。
研究の役割を説明モデルだけで捉えてしまうと、行動主義的アプローチを取らざるを得なくなってしまう。しかし、実際には人間の営みはより複雑で因果関係のみで語ることができる領域はわずかである。だからこそ、理解モデルの研究をしていく必要があるのだと思う。
佐藤学の授業研究のパラダイム転換論
このようなモノの見方は、なにもビースタが言い始めたわけではなく、日本においては佐藤学による授業研究のパラダイム転換論のなかですでに提起されている。ビースタの主張をより深く理解するためには、佐藤学論を読むべきである。
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佐藤学が提起した授業研究のパラダイム転換論は、まさに自然科学的で実証主義的な研究によってもたらされる科学的技術の合理的適用を目指す授業研究(説明的研究)から、経験の意味と関係の解明を目指す反省的実践(理解的研究)への転換であった。このあたりは、稲垣・佐藤『授業研究入門』や、佐藤学『教育方法学』を読むといい。
反省的実践に基づく授業分析(ビースタで言うところの理解的研究)を志向する研究は、徐々に受け入れられているような気もするが、まだまだ技術的実践を志向する研究が支配的なのもまた事実だと思う。
この手の話をするために読んでおくべき文献
技術的実践や説明的研究が支配的なのは、反省的実践や理解的研究が本当に「研究」と言えるのか、という疑念から生まれているような気がする。この点について詳述すると大変なので、以下の書籍を読んでもらえるといいと思う。
これらの書籍は、大体同じ系譜の中に位置づけることができると思っている。自分の教育研究観というか、スタンスを確立するために特に院生は読むといい。僕の周りの研究仲間は大体読んでるから、同じ枠組みの中で議論ができる。
僕自身は、子どもの学びの複雑さと奥深さに魅了された人間の1人なので、それを説明するより理解するための研究がしたいと思っている。何処かから借りてきた理論枠組みを子どもの学びに当てはめるのではなく、そこで起こっている事象を理解するための固有の理論を探究したい。
特に、コンピュータと教育の領域では、その親学問の性質からどうしても説明的研究に偏ってしまうのがもったいない。理解的研究でしか描けない姿があるはずであり、教育の問題とするならばやはり価値の議論をしなければならないのである。だから、自分は情報学・工学の視点から教育を対象としてみるのではなく、教育学に軸足を起きながら情報や工学を見る、というスタンスを取っている。
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とはいえ、これらも1つの「価値」なので、何に依拠するかは自由だし、これが全てだとはまったく思ってない。自分が依拠するに値する先行研究というか、流れを探していくのも、院生の初期段階のうちにやっておくべき研究である。
ただ、『よい教育研究とはなにか』はまず最初に読んでおくべき本だと思う。卒業論文書く学部生から、これから教育研究を本格的にスタートしていく院生の最初に読むべき本と言ってもいいかもしれない。自分の中の研究イメージを脱構築することで、やりたいことが見つかるきっかけになるのではなかろうか。
[1]そもそも、量的/質的とは、結局のところデータの種類でしかなく、どのような問いに対してどのようなデータを収集し、どのように記述するかということが問われている。詳しくは、ビースタ(2024)p.11を参照。
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