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呼応し合う本たち

 今年も良書との出会いに恵まれ、充実の読書生活を送っている。ありがたい。それは贔屓にしてる本屋さんのおかげでもある。子どもの頃はショッピングモールやアウトレットなんかなくて、近所の個人商店で日々の買い物をし、たまにデパートに行くぐらいだった。もちろんAmazonなどの通販サイトもなかった。通販といえば、20代の初め頃に海外からカタログを取り寄せてL.L.Beanの服やトートバッグを買ったりしていた。慣れない英語でドキドキしながら注文すると「これ、いったい誰が履くん?」っていうようなサイズの靴が届いてビックリしたこともあったな(苦笑)しかも届くまで何週間もかかっていた。

 ポチッと押したら早ければ当日の夜には届いてしまう通販の便利さはありがたいけど、スマホを見れば「これを買え、あれを飲め、これを着ろ、あれを読め」など次々にやって来る広告の海で溺れそうになる。そんなとき、ちゃんと店頭で言葉を交わしながら買い物すると同じ商品であっても、どこか心が和むというか、大切に読もう、大切に使おう、残さず食べようという気持ちになる。

 先日、ひょんなことからやって来た斎藤真理子さんの『韓国文学の中心にあるもの』 「入荷しましたよ」と連絡をいただいたけれど、それは注文した覚えの無い一冊だった。でも、こういう偶然の出会いはとても楽しい。なんだかワクワクする。きっと本が私を呼んでいるんだろうと思い、さっそく受け取りに行って読み始めたら止まらなくなった。

 様々な文学作品が生まれる背景には、その時代の影響が色濃く反映されている。あっという間に姿を消していく本もあれば、何世代にも渡って読み継がれる本もある。人と同じく短命であってもその時代を駆け抜けていった本にはその役割があるのだろうし、長寿を全うできたら、それはそれで本にとっても幸せなんだろうと思う。この作品に出てきた『こびとが打ち上げた小さなボール』は世代を超えて読み継がれている一冊だそう。近々読もうと思う。

 同時期に何冊も並行して読む、一冊ずつ読む、いろんな読み方があるけれど、私は何冊も同時に並行して読む。いくつかのジャンルや言語を行ったり来たりしながら読むのが好きだ。この読み方のいいところは「本が本を呼ぶ」というか、異なるジャンルや言語であっても、同時期に手にする本にはどこか通じ合うものがあって、それぞれの読書体験が重なり合って理解が深まっていくという独特の感覚を味わえる。

 片山洋次郎先生の『変動を生きのびる整体』は人の身体の変化を時代考証を絡めながら解説してあって、前述の韓国文学とは異なるジャンルだけど、時代の変化と人の営みとのつながりについて考えさせてくれる。どちらも時代性を扱っているので共通するところもある。片山先生の本は「読む整体」といった感じで、どの本も身体に効くというか、読後はいつもスッと姿勢が整うような感じになる。本は無機物だけど、生身の人間の言葉が閉じ込められた存在でもあって、それはどこか生き物のような感じがする。

 本は私の暮らしに欠かせない生活必需品。旧正月にだいぶ積読を消化したから、また補充せねば。冷蔵庫が空っぽになってくると不安になるように、積読本が減ってくると、ちょっと心許ない感じになるんだよなぁ。





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