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いつもの
学生時代に本格的に酒を飲み始めて、やってみたかったのが、バーのマスターに「何にしますか」と聞かれて「いつもの」というセリフを言うことでした。
飲み慣れている感や、店の常連感が無性に格好良く思えてやりたくなったのです。そのため、下宿から徒歩10分ぐらいのバーに足しげなく通いました。
カウンターの端にいつも座り、ハーパーのロックをダブルで毎回も頼み続けました。アルコール度数の高いウイスキーをチビチビ飲むことで、低コストで長時間飲むことが出来ました。
大学での話や音楽の話、恋愛の話などをしながら、マスターとも仲良くなり、酒癖が悪かった私にも良くしてくれたのです。ライブの打ち上げにも何度も利用させてもらいました。あの時は迷惑をかけてすみませんでした。そして、ありがとうございました。
同じ店に通い続けてそろそろ「いつもの」と言えるかなと考えましたが、まだその時ではないと躊躇して止めました。言えるかな、言えないかな、言えるかな、言えないかな、と何回もラリーを続けてようやく時が満ちました。
店のドアを開け、いつものカウンターに座り、意を決してマスターに伝えたのです。
「いつもの」
マスターはハーパーのロックを手際よく準備し、私に差し出してくれました。もちろんダブルで。私は心の中でガッツポーズを決め、溢れ出る喜びをニヒルな笑いに変え、平静を装いグラスに口を付けたのです。
この「いつもの」の話にはまだ先があります。「いつもの」のハードルを乗り越えた後も、同じ物を頼み続けました。今度は私が何も言わなくてもマスターが「いつもの」と言って私にハーパーのロックを差し出してくれないかと考えたのです。
私はまた足しげなく同じバーに通いました。頼むのはもちろんハーパーのロックをダブルで。そして、注文のタイミングを少しずつ遅らせていったのです。いつか、マスターの方から「いつもの」と言ってグラスを差し出してくれるように。
それでも、なかなか私からのオーダー無くして、マスターからの提供はありませんでした。私は今まであんなに憧れていた「いつもの」のセリフを飽きるほど使い、いづれ迎えるであろう日を待ち続けました。そして、ついにその日が来たのです。
「いつもの」
そうマスターが言いながら、ハーパーのロックを差し出してくれたのです。もちろんダブルで。痺れました。こちらからオーダーする事なく、オーダーが通ったのです。私は天にも登るような気持ちで、椅子から少し浮いてしまいました。マスターには悟られないように、背筋を伸ばして誤魔化しました。
何十回も通い続けて、言い続ければ当たり前の出来事かも知れませんが、努力が実ったようで私はとても嬉しかったのです。
このような努力が出来るのは若い時だけかも知れません。今はそんな情熱が持てませんが、何かに情熱を注ぐ事は良い事だと思います。マスターもそんな気持ちでウイスキーを注いでいたのかも知れません。
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