板挟みとの付き合い方 | 気苦労のほとんどがジレンマ説
こんにちは。とある日の昼下がり。妻は職場の同僚を呼んで、マンション一階のパーティールームでたこ焼きパーティーをしてます。
一方、私は自宅にて子供のお昼寝の番をしながらnoteを書いている感じです。片付いた静かな部屋でのんびり過ごしてます。
はじめに
面白い記事でしたので紹介します。
この記事の内容を私なりに噛み砕くと、以下のような感じでしょうか。
疑惑の渦中の首相から、夕食に招待されて出席する記者に対し、同じ組織の中でも『出席はいかがなものか』という意見がある。
その一方で、ネタ収集や関係維持の観点から無下にできないという見方もある。
それぞれの立場があってそれぞれの意見がある。
ということだと理解しています。
組織に属する人間にとっては身につまされる話です。
板挟みの話題だけで酒が進む
歳を取るにしたがって、私が巻き込まれる板挟みのバラエティーがだんだん豊かになってきた気がします。笑 仕事や家庭、子供、親戚など自分が担う立場や役割が増えるほど酷くなっていく印象です。
ほんと面倒くさいですね。
とは言え、板挟みは何事においても避けて通れないモノなのかもしれません。例えば仕事の場合、社内の部署間で利害が一致しないケースは日常茶飯事です。
そこでこのnoteでは、身の周りに溢れる板挟みについて今一度考えてみたいと思います。自戒の念という体で紹介します。
自分だったらどうするか
冒頭に紹介した記事に戻ります。
“桜を見る会”で炎上中の首相との食事会に誘われ、参加する記者達。外野から見るといろいろツッコミたくなっちゃいます。
ただ、一歩立ち止まって、彼ら彼女らの心持ちを想像してみるとどうでしょうか。冒頭の記事にも書かれているように、記者の方々も何らかの板挟みはあるのかなと何となく察しがつきます。
このケースが適切な例かどうかはわかりませんが、当事者の心持ちを想像すると思考に深みが出る気がします。自分がその立場だったらどんな選択をするのかという歩み寄りは、相手と利害が対立する場面で何かの糸口になるかもしれません。
首相との食事に、『毎日』は行かなかったようですね。すごいです。
《まとめ》
当事者の心持ちを想像して、板挟みに寄り添ってみる
自分の板挟みと向き合う
『組織で働く』という心情を仮に一言で表すならば、何が思い浮かぶでしょうか。私の場合、これです。
あちらを立てればこちらが立たず
仕事上のストレスはほとんどこの一言に尽きるのかなと思ってます。周りを見渡すとそんな状況に四苦八苦しているのが目に入ります。
事態を収拾させることにあまりに気を取られ、自分の気持ちを押し殺して苦しくなることは、企業で働く方は結構な割合で経験済みなのかもしれません。
以前noteに書いた気もするんですが、そんな時は『自分が板挟みにあっている』ことを認識するように心掛けています。
絡まった糸を解すように、自分の意向を含めて客観的に状況を理解するよう努めています。言うは易しで、これが意外と難しいかもしれません。
個人的には、仕事上のジレンマを解消するのが管理職の役割と思う部分はあるものの、オジサン連中は板挟みを解消するというよりも、むしろいろいろな板挟みを作る人が一定数いる気がしてなりません。
彼らには彼らなりの板挟みがあるのかもしれませんね。
《まとめ》
自分が板挟まれていることを実感するよう努める
もっと声を上げてもいいのかもしれない
日常の板挟みに想いを馳せるだけでいろいろな画が浮かびます。悩みは尽きません。
ただ、冷静に考えると、もっと素直に意見を言ってもいいのかもしれないですね。私自身、気を使うタイプなのでなかなか言いづらさはありますが。
そんな時は、いつも歯に絹着せぬ人を心の中で、時に声に出して応援してます。笑
《まとめ》
板挟みを気にしない人を応援してみる
さいごに
朝、自宅マンションから出たすぐの空き地でタヌキを見つけました。犬猫ではなく確実にタヌキでした。田舎育ちの私の目に狂いはありません。笑
こんなことにもいるんだなと感心したんですが、居住地が茨城県なので居てもおかしくないですね。失礼しました。それではまた。