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使い捨てカイロと悲しみのおでん

悲しい瞬間があった。
こないだ深夜のコンビニに寄っておでんを買って帰った時だ。

ん?
今は深夜にはおでんを売っていないからもう少し早い時間だったかも知れない。
ちょっと覚えていないから申し訳ないんだけど、とにかく夜だったのは確か。

そう。
大根にこんにゃく。厚揚げに白滝。がんもでしょー。それから…。
と、その日はたくさん食べたくて、いろいろ選んでいた。

そのままレジに行く。お会計している間、入り口にふと目をやる。
(口は悪いが真実を語る)
いつもその辺をうろうろしているホームレスのおじさんがお店に入ってきた。

「(寒いだろうに、大変だな。)」と、ちょっと思った。
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ところで、なにか買うお金があるんだろうか?
なんて思いながらも、まぁいいか、あんまりジロジロ見ないでおこうと思いレジの方に目を戻す。
と、背後に気配だ。さっきのおじさんが並んでいる。
何かお目当てのものがあったんだろう。何か買って食べるようなお金があるんだな。
薄情にもそんな風な事を思いながら僕はお会計を済ませていた。

「ありがとうございます!またお越しくださいませ!」
お会計を済ませて少し振り返ると、おじさんの持っている物が見えた。

“使い捨てカイロ”だった。


そう。この日は結構寒い日で、早く帰ってあったかい物でも食べようかという気持ちになり、それで僕はおでんを買って帰ろうとしたのだった。

なけなしのお金で、カイロか…。
方や僕は大量のおでんで温まろうとし、おじさんは使い捨てのカイロだ。
本当はあったかい食べ物が買いたいだろうに、この寒さをしのごうと、少しでも体を温める物を買おうとしていたのだ。

それを見て、コンビニの入り口付近で少し足を止める。
薄情な寂しい世の中(自分)だな。
本当なら、この大量のおでんを差し上げたり、何か買ってあげたいような気持ちになったのだけど、どうにも行動に移せない。

何でだろうか?
この先のは、何だか難しい。考えようにも考えられない。

果たしてそれをやったところで、おじさんのためになるんだろうか?とか。
僕を見ては集るようになりはしないだろうか?とか
軽はずみな同情なんてするもんじゃない。その時だけの親切だか何だか知らないこの気持ちなんて、ポッと湧いたような瞬間的な物だったら、それこそ自分もおじさんも気分が悪くなりそうだ。とか。

ちょっとだけ、いろんな事を瞬間的に考えて、結局何もする事なくコンビニを後にした。

もし、誰か同じようなひとに手を差し出す事、哀れみを感じて行動に移す事を習慣としていたならば、もしかしたら悩む事なく行動できるんじゃないか?と思った。(なんか宗教のひとみたいで嫌なんだけど)


誰かに褒められるからとか、カッコいいからとか、モテるからとか、そんな事はどうだっていい。
誰かを応援したい、支援したい助けたい。そう思った時にそう行動できないのは勇気や自分の資力を削ってまでもやってもいいという優しさなり親切心なり愛情の欠如なのではないか。と、そんな風に思った。

たかだかおじさんが使い捨てカイロを買うってだけのことで、こんな風に考えさせられるのも、普段から何も親切めいた事を“やっていない”ことの現れなんだな。


なんて、ちょっとだけ寂しい気持ちになったのな。
もっと親切になりたいとか、いいひとになりたいとか、そんなことじゃなくてね。
そう思うのであれば、何かもっと身近なひとを、もっと応援できるな。と。
そんなんで考えたのな。

身近なひとから大切に、これからの僕は。

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二ノ宮金三郎
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