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肉を包んだ旨いものと友人

お餃子を作りました。
美味しいものを食べる度に思いますが、こういう旨いものを作れるひと(開発できるひと)って天才ですよね。
本当に尊敬できますね。


不思議ですね、どんなにか難しくて、どんなにかひとの嫌がることを代わりにやってくれたとしても尊敬できるかどうかどうかと言われたら難しいものですが、美味しいものを作れるひとというのは尊敬できたり、すごいなと思えるものです。不思議ですね。


餃子というと、中国では餃子だけをたんまり作ってパクパク食べるそうです。
白いご飯にワンバンさせたりしていただくものではないのだそうですね。
あのワンバン飯がうまかったりするんですけどね、文化ってのはおそロシアですよ。



天才の不思議や文化の違いの不思議もありますが、ひととの距離の不思議もあります。
餃子を作って2人で食べようかとしていたのですが、ちょうどやりとりしていた仲良しの友人が来てくれることになったんです。「いつでもこいよ。」送信。

餃子も90個くらい包んでいるので数は十分あります。
むしろ来てくれると盛り上がって楽しいのでありがたいです。

わいわいと食べ食べして、がはがは笑って、明日はちょっと仕事で早いからってちょっと早めに帰宅していきましたが、「いつも御馳走してもらって悪い、でもありがたい」って感じで帰っていきます。

僕らは「あいつまた来るってよ」とか「めちゃたくさん食べやがるよな」とかそんなことは微塵も考えていないのですよね。

「今日もまた来てくれて楽しかった、今度は何をごちそうして食わしてやろうか?」
なんて思っているわけですよ。あと、「いつでも来たらいいねん」「なんなら泊まってけ」くらいに思っているわけです。


それで良いんですよ。それで。そのままでいいのです。
特に特別なお礼とか、それ相応のお金を置いて行って欲しいんだとか、そんなこともちょっとも少しも微塵にも小麦粉ほどにも考えてはいないのです。




しかし、こんな風に考えました。


まったく気兼ねのない存在って、自分の家族と自分の恋人くらいしかこの世の中にはいないのでしょうか?


自分の家族、自分の生まれ育った家族とは、自分が自分の家族を作るまでは自分の家として存在すると思いますが、そこから離れた場合は、特に僕なんかはそうです。“気兼ねなく接せるひと”ってそこまで多くはないのではないだろうか?と考えたのでした。

もしかすると気を遣ってもらってばかりか、気を遣ってしまうひとばかりが自分の周りにいることになります。
気を遣う者同士でいたとしても、気兼ねない存在だとは言い切れませんよね。「気兼ねない」とはどこからはじまって、どんな風な関係へと続いていくのでしょうか?その関係をいつまでも続けることって可能なのでしょうかね?気兼ねるひとと気兼ねないひとの違いってどこからなのでしょうか?

謎は深まってきます。真実はいつもひとつですが、こればかりは真実がいくつも存在しそうな気がしてなりません。


考え過ぎて切なくなってきたので、考えることをやめよう。


兎にも角にも、餃子が美味しくって、またやろうって話です。




包み込むような優しさだな、これからの僕は。

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二ノ宮金三郎
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