平行線を行くのは難しいという話
ダサい服と不味い食べ物の意味がわからない。
街を歩いていると「あれはダサいなぁ」と思える服を見かけることや、ふと立ち寄って食べたものが「なんだこりゃ、美味しくない」と感じることがある。
「それってのはいったいどういうことなんだろうか?」と思うことがある。
ダサいとかマズいというのは自分の“感覚”の話である。
自分の持っている感性を生かして物事を見たり味わう事で、それに優劣を付けた結果を生じさせているのだ。
しかしそこで思うのは、僕は別にファッションなど学んだことはないし、美食家でもない(自分で食べ物を作ったりはするし、人にも作ったものを出したりはしているから、その点はマトモなのかもしれないが)。
自分も特別カッコいい服を着ているわけでもないし、優れた舌を持っているわけではない。
僕が言いたいのは、なぜ人間はそんなにもカッコよくない服を売ろうと思ったのかって事と、美味しくもないものを売れると思ったのだろうか?という事だ。
もちろん全てをカッコよくしようなんてものは無理なのかもしれないし、ダサいものがあるからこそカッコよく見えるものもあるんだという事なんだろう。食べ物だって同じ事だ。美味しいと感じるものがあれば、マズいと感じるものだってあるのはまっとうなことなのだ。
もし、全てがカッコいいかどうか優劣を付けないでいたり、失敗することを恐れていて、自分が「コレだ!」と思ってもいない無難なものを出しているなら、全てがのっぺりとした感じになり、特別にカッコよくなかった時代の「無印良品」や「ユニクロ」になっているだろう。(20年くらい前はそうだったと思うんだ)
今はすごく人気が出ているが、あれは言うなれば“個性的なものをいかにして求めないか”ということで、尖ったものでも丸くなったものでもなくて、“平らなもの”を提供しているんじゃないかって思うのである。
コレがカッコいいだろ!
こういうのが欲しいんだろ!
どうだ!コレを着たら目を引くよ!
なんてものを次から次へと削いで行った形なんじゃないかって思うのである。
今だとそれはカッコいいのかもしれない。
目立つものやワンポイントあるかわいいマークやカッコいいデザインはむしろ目立ってしまって嫌だ。
何もないのがよくて、そこから何も感じられないのが自然でいい。という、そこから何も生じさせないような平坦なものを好んでいるのだろう。
僕も思春期くらいの歳にそんな時があった。
無地のものってないのかといろいろ探し回っていたことがある。
なぜかって、めんどくさいのよ。
それがカッコいいかどうかといちいち見られるのが疲れてしまうのだ。
なぜカッコいいかそうでないかと見られる必要があるんだろうか?そんなものいらないじゃないか。って思っていた。
裸になればみんな一緒、制服を着ればみんな一緒なわけである。
汚いかそうでないか、臭いかそうでないか、それぐらいでもうお腹いっぱいなのだ。それ以外のところで自分の劣点をさらされたかないのである。
人間は向上心がある限り、なんでもかんでも優劣を付けたがるし、自分のことを持ち上げたがる。
自分はカッコよくなりたいと思うし、美味しいものを求める。
それは仕方のないことなんだけど。
僕がここで言いたいのは「それを求めないと、なぜマイナス面に働いてしまうのか?」という謎である。
何も考えないで服を着たり、何も考えないで食べ物を買ったりすると、謎に悪い方向に行ったりするのだろうか?と思ったのだ。
つまり、無印良品とかユニクロのように平坦で無難なところを行くにしても、その平坦なところを保とうとして考えていないとマイナス面に行ってしまうだろうということだ。
地球は太陽との距離をいい感じで保ってぐるぐると回っているが、あれは結構難しいことらしいんだわ。
ちょっとでも離れたりしたら今よりもっと寒くなるだろうし、ちょっとでも近づこうもんならアチアチホットな感じになってしまう。そうならないちょうど良いラインをちゃんとぐるぐる回っているんだそうだね。
言うなればそこである。
ユニクロとか無印郎品が行っているのはそこんところなのだ。
抜群にカッコいいとか超絶にダサいとかって言われないギリギリのラインを行っているのだ。
いや、ファッションに困ったり、ファッションなんてめんどくせーと思ったら、みんなそこ行けば間違いねーんじゃね?とそう思ったのだけど、この街にダサさは消えないんだろうなとも思ったという話である。