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「ばえだよ、ばえ!」

まだまだ流行っているんでしょうか、それともちょっと落ち着いた感があるかな?

“インスタばえ”という言葉。

一時期はずいぶんとよく耳にしていたり、TVで取り上げられて、インフルエンサーがどうだとか、高級キンキラお寿司がばえるんだとか。
「今の世の中ばえだよ、ばえ!」と騒いでいたように感じます。今でも騒いでいるひとも中にはいるんでしょうが、よくわかりませんね。いるのかな?

ポケモンもそう。
グッと流行っては、やれあちこちでケータイを連打したりお年寄りが慣れないケータイをシュッと指で「えいっえいっ!」とやっている光景をあちこちで見かけましたが、それもちょっと落ち着いて、今では「まだポケモンやってんの?」とまで言われる始末になっています。
僕としては、長く続けられるだけ“羨ましい”と感じることもしばしば。

いや。ちょっと待てよ…。
それを言うなら、この作文は長く続いているわ。

どうやら何かしらの根気なり、続ける努力などは僕にもあるらしいです。よかった。

話はInstagramの事でして。
LINEでのやりとりが盛り上がっていて、便利だの速いだの、グループでの会話ができて良いだの言っていた頃に、「Instagram」はまだ出たばかりで、「ひとの写真を覗いて何が面白いのか」などと当時の友達が言っていたように思います。(今考えると、見られたくない写真はアップしなきゃいいだけの話なんですよね)
しかしそれから利用者は増え続け、今も利用者はどんどん増え続けているようですね。(そりゃそうだ)


当時の考えとしては、「ひとがアップした画像なり写真にコメントできる」それくらいの事でした。僕としても正直つまらないと思っていて、全く関心を持っていなかった記憶がチラチラしております。

というのも、最初は懐疑的になってその事に関する存在価値とか意義を模索して話しては「こんなの変だよ」「誰が使うんだよ」となっていたと思うんです。
だけど…


物事、最初から破茶滅茶におもしろいとか楽しいなんてことは、まったく無いのです。


あるひとつのぽんと出たアイデアが、ちょっとおもしろい“かも?”となって、ひとりからではないいろんなアイデアが、磁石にくっつく砂鉄みたいにカサカサカサッと集まって、ちょっと動かす度にブワーっと大きくなって、「うっひゃー、コレ、超おもしれーじゃん!」となっていきます。

それの中のアイデアのひとつに、「コレは違う使い方次第で、もしかするとこんな風に便利になるんじゃないか?」という本来の目的と違う“新しい楽しさ”を見つけて、アイデアに色を付けるのでしょう。
最近はもうポケモンやInstagramは色づけられていますね。
よりおもしろく、より便利なものへ。
と変化を遂げて、皆の携帯に溶け込んでいます。


「最近はInstagramが便利だな」という考えに落ち着くことがしばしばあります。

何がそんなに便利なのかと。
昔も今も変わらず、“写真”というのは、どこにでもあるし娯楽や趣味のひとつ、もしくは、時に“証拠”になったり芸術になったりと様々な効果がありますね。
写真をパラパラと高速で動かすと動画にもなり、映画ができたほどですよね。

文字や声で表すことよりも写真の方が伝わる場合があるし一瞬見ただけの情報量は、やっぱり写真の方が上なのですよね。
ひとのプロフィールをじろじろ眺めるよりも効果的なんだということがわかります。
もちろん文字の方が細かい事や感情を伝えることができますが、そうなると誰かの反感も買いやすいという欠点があります。
写真は逆に、情報は多いですが言葉によって誰か特定のひとを攻撃したりは難しいのかもしれません。ほんのちょっとだけ安心。

最近出会ったひとと連絡先を交換するというのに、Instagramをやっていないと不便だったことがありました。LINEやFacebookは“交換しにくい”という難点がどうしても払拭できないようです。

そうやって流行っては定着したものに乗っかって慣れていかないと、置いてきぼりになって、“不便なのはシステムではなく自分だった”ということに後になって気づくのかもしれません。


時代に付いて行くことは、自分を便利にしていくことでもあるのですね。


頑固であるのは自分にだけでいい、これからの僕は。

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二ノ宮金三郎
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