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武家の墓

田舎の法事

    我が家で法事があり、親戚も集まった。
自分で十八代、400年近い家で、祖父の頃に祭りや法事があれば、二間を戸を外して奥座敷にびっちり親戚が座り、お膳には今で言う郷土料理がいくつも並んで、お膳に乗り切らない料理の数々が祖母を中心に親戚のお母さん方と作り、日本酒の一升瓶が何本も瞬く間に飲み干された。

    今回は自分から見て両親、弟家族、妹家族、父方の伯母夫妻、祖父の兄妹の子が2人と我が家としては最小規模となった。高齢で来られない人もいたが、親戚として呼ぶ距離感が以前より極めて狭くなった。

    4代くらい前の世代も普通に来ていたし、本家の祭りや法事に参じる事はごく当たり前だった。あの頃を僅かに知る自分にはなかなか寂しいものがあり、親戚がたくさん集まる場というのは、田舎の中で重要な場面であったと思う。

    その中で伯母の嫁ぎ先は県外だったが、伯父の親や先祖がどちらも鶴岡の出身で、今までの五十嵐家では特殊な家だった。高度成長期で跡取り以外は東京などへ集団就職からの流れ。

武士の家系

    伯父の父方、母方の家系がどちらも徳川四天王筆頭として有名な酒井家の家臣の家系。鶴岡市を含む庄内は庄内藩として戦国時代から戊辰戦争まで強い存在感を示した事もあり、酒井家の居城近くには、酒井家がまだ三河に居た頃からの家臣だけでなく、寺社も庄内藩に着いて来ている。

    なぜ今ではド田舎な庄内に徳川四天王が領主として居たのかとか、戊辰戦争での数々の歴史的な背景は長くなるので割愛するが、酒井家の菩提寺以外の近くの寺にも家臣のお墓が数えきれないほどある。

    小さい頃から歴史好きな自分には親戚に酒井家の家臣の家系がいるだけでも興奮したものですが、伯父と自分は今となっては似た境遇もあり、もっと身近に知る機会もあった。

    伯父の父方は中村家、母方は松森胤保で有名な松森家。中村家は家臣の中に何人かいるようで、調べようと思ったが、ネットでは全く出ない。おそらく市の図書館の資料室で調べれば分かるものの、何でも調べられるくらいのインターネットでも出てこない。そもそも誰もアップしなければそりゃ情報は見つからない。
    多分、図書館には「庄内人名事典・三百藩家臣人名事典」ってのがあるよう。

   個人的には酒井家の家臣が昭和の時代にまた混じることになった家系が伯父だなんて、甥っ子胸熱である。ただ伯父叔母は子供がいないので中村&松森の長男は絶えても、伯父の姉たちが血筋は残しているが、先祖のお墓には残念ながら関心は無い…。

松森胤保

    伯父の母方の松森家は山形県では有名で、特に松森胤保は文武ともに秀でており、ダーウィン、ダ・ヴィンチとすら比較されるし、最近の朝ドラにもなった植物博士の牧野富太郎よりも昔に「近世植物・動物・鉱物図譜集成」や「鳥獣虫魚譜」などを200年近く前に残し、今でも美術館などで展示がある。

     松森胤保は若くして助教の官に任ぜられるほど学問にも秀でており、祖父などから居合道、抜刀、撃剣、槍術、馬術、鉄砲まで学び、庄内藩近くの松山藩家老付きとなり、1864年に40歳で江戸に出府している。
    この頃は尊皇攘夷を巡り不穏な時期で、3年後に起きた歴史にも残る薩摩藩邸焼き討ちにあたっては、庄内藩などの総大将を務めている。

    その後に戊辰戦争が始まるが、焼き討ちでの功績を認められ酒井家の当時の藩主酒井忠良公より、松山藩軍務総裁に任ぜられ、松山藩一番隊長兼庄内藩一番大隊参謀として、(庄内的にはw)かの有名な庄内藩の快進撃を支える。
    なおこの頃には酒井家分家には庄内柿の始祖となる酒井調良もおり、同じく庄内藩の無敗を支えている。

    松山藩を守った功績から藩主酒井忠良公よりさらに「松守」の性を贈られたが、松森胤保はこれを固辞し、「守」を「森」とし、今の松森胤保の名に至る。

    ですから、松森の名字はここで初めて生まれている。戊辰戦争以後は藩校の惣管(そうかん)(校長)などになり、体調不良などで辞め、家督を譲り、鶴岡市宝町に引っ越す。県会議員などに着くもまた体調不良もあり一切の公職から抜け、研究や著述活動に没頭していく。

   そして間もなく奥羽人類学会を組織しその初代会長となり、有名な「鳥羽単羽号」を設計する。これを近年にある大学で実際に作り展示もされ、今の松森家である松森写真館に飾ってある。

現在の松森家当主の松森昌保さんと
実際に作った鳥羽単羽号

    多くの文献や図鑑などを残し1892年享年68歳で大河ドラマを作れるほどの激動の人生を終える。菩提寺は鶴岡市の禅源寺で、酒井家の菩提寺の大督寺のすぐ近くの酒井家家臣達の多くの墓が残る寺のひとつである。

   ちなみに伯父の父方の中村家の菩提寺は禅源寺近くの安国寺で、そこには嵐の松本潤が主演しNHKでドラマになった北海道開拓使の松本十郎のお墓もある。

松本十郎

松本十郎は戊辰戦争で敗軍であったにも拘わらず、北海道開拓使の大判官となり、北海道を調査し、アイヌ保護政策を主張した。松森胤保よりは十数歳若かったが、才に秀でてたので何かしらの接点はあったんだろう。松森胤保より20年ほど遅くに亡くなり、安国寺に代々のお墓を残す。

菩提寺

   徳川四天王の酒井家の家臣団が三河から大量に来ているし、戊辰戦争や明治維新ではどうしても薩摩藩、長州藩が有名だが、北前船で栄えた酒田港や名家もあり、戊辰戦争では薩摩藩、長州藩、そして幕府などにも負けず劣らずの藩の力があったので、数えきれないほどの酒井家家臣のお家があり、それぞれの代々のお墓が多く残っている。

    しかし、明治維新後、そして第二次世界大戦後の農地改革を経て、大きい家は少なくなり、武士の家系である事も廃れていった。辛うじて藩主の酒井家は今でも酒井の殿様なんて感じで代々、鶴岡の要職を務めたりし、今でも続いている。
    菩提寺には、古くは100年以上も前からのお墓が多くあるが、その多くは荒れ墓、無縁墓となり崩れたり倒れたりしている。

   今回、法事で来た伯父伯母は既に免許返納しているので、両親のご先祖さまのお墓に着いてまわってあちこちのお墓を見て話を聞いた。

松森家のお墓

     松森家は鶴岡に引越し、子孫が写真館を営み、今に至るのでお墓は立派でお墓の奥には、松森胤保のその室や親、息子らのお墓もある。
    さらにすぐ隣には戊辰戦争の鬼玄蕃こと酒井了恒と庄内柿の祖、酒井調良の弟で、「ただの「書家」に非ずして「大書家」と称したい」と称された黒崎研堂のお墓が並ぶようにあり、何かしら関係があったのか気になる。

  今でも子孫が大切に守っているお墓がある反面、無縁墓となると酒井家家臣の墓であろうと放置されどんどん朽ちていく。
    お墓は観光資源になる事は殿様クラスでなければ有り得ないので、行政が立ち入ることでもないし、菩提寺も墓全体を管理はしても、ここの墓が朽ちる事に修繕したりする事が無いのも当たり前である。

   しかし、松森胤保、酒井調良、黒崎研堂、松本十郎など個々に有名な人のお墓は残されており、他にもどでかいお墓もある。松森家の墓の左隣の傾いているお墓は既に無縁墓で、どこにも管理責任は無い。

   しかし、自分レベルの歴史好きでも酒井家家臣にこれだけ色々いて、戊辰戦争などで名を馳せた人も何人かおり、その家系や功績など気になると調べたくなる。ただネットではまったく情報は出てこない。
    近くの市の図書館の資料室なら酒井家の資料があるだろうから、無縁墓でも名が読み取れればどういう流れの人か分かるはず。もしかしたら文献として近代にまとめてる人でもいるのだろうか?

情報はどこ?家臣墓マップ?

   酒井家や松森胤保が気になって 、墓を巡りたくなると圧倒的に情報不足。しかもお墓は無縁墓になったものも多いし、名家でも墓の管理が当主の高齢化で雑になっている。お墓の場所などは、酒井家家臣でも無い家のものも混じるけど、家臣墓マップとその家臣の家系がこと細やかに分かる情報、サイトが欲しい。

    一部は酒井家などに無関係であるから個人情報管理は大変だけど、徳川四天王の酒井家のみがクローズアップされるだけでなく、酒井家を支える名家情報をまとめると、街歩きのネタにもなる。お墓の整備にも多少なり繋がればそれもまた悪くは無いと思う。

    大督寺、安国寺、禅源寺どこもとても大きいお寺だが、檀家は確実に減っているから管理も難しいんだろう。

庄内藩の菩提寺巡り

    でも歴史ある庄内藩、そして調べる甲斐のある有名な方々のお墓は情報をまとめて、酒井の殿様の城下町のお菩提寺とお墓巡りを構築したらニーズは少なからずありそうたし、それを機に歴史あるお墓の整備をし、情報をまとめて、サイトなど作れたらいいなぁと。

草むしり後の松森家のお墓

   草むしりしてスッキリ✨
お墓の花は我が家の庭から。
丁寧に無縁墓を調べて供養し直して整備もし直す所まで出来たらいいなぁ


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