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「表」タケミナカタ神話「表」①
▼プロローグ
タケミナカタ(建御名方命、諏訪大明神)の物語は古事記における出雲の国譲りの段に語られます。
この神様は謎の多い存在で古代から今に至るまで多くの考察を生んでいます。
今回はタケミナカタが何者であるかは考察しません。
物語としてのタケミナカタ神話のメッセージ性に触れていきたいと思います。
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▼導入
神話とはなんでしょうか?様々な捉え方があると思います。
まずはいくつかの捉え方のケースを見ていきましょう。
1、「事実を伝えている」という捉え方
宗教を信じる方にとって教えに書かれている内容は事実そのものであること。そのパターンがここに該当します。
また、宇宙人が神として人間を創造したことが各宗教の啓典に書かれている、というような考え方もこのパターンに該当するのではないでしょうか。
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2、ユングが提唱した元型(アーキタイプ)や集合的無意識の考え方
世界中には様々な神話がありますが不思議なことに遠く離れた国同士の神話でさえ、偶然とは思えない内容の一致が多く見られます。これに関して民族や思想の移動による伝播とは別に、人間には民族や風土に関わらない、普遍的な母親像であったり、父親像、仮面、影等の概念が無意識の中に存在し、それが神話が描かれたときに類似性として現れる、という考え方です。
例としてはギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケと日本神話のイザナギ、イザナミの類似性を挙げることができるでしょう。
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3、歴史に沿って描いている、という捉え方
何かしらに事情により歴史として残すことができず、かわりに伝承や御伽噺、神話として「イシ」を繋いだ、という考えです。例えばつい最近まで、「出雲政権などというのはただの神話で存在していたはずがない」、という風潮がありました。しかし、実際の発掘調査で出雲政権があったと思われる島根で大量の銅剣が発掘されたこと、出雲大社が過去にもっと巨大であったことを想像させる柱が発見されたこと等で少なくとも出雲地方に大きな勢力があったことは疑いようがないことが判明したのです。神話が少なからず歴史に沿って書かれていたケースの一例と言えるでしょう。
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https://korokoroblog.hatenablog.com/entry/2020/01/17/%E2%96%A0%E2%91%A2%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%A4%A7%E7%A4%BE%E3%81%AE%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E6%9F%B1%E3%80%81%E3%80%8C%E5%BF%83%E5%BE%A1%E6%9F%B1%E3%80%8D%E3%80%8C%E5%AE%87%E8%B1%86%E6%9F%B1
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https://www.izumo-kankou.gr.jp/special/681
4、神話という物語に強いメッセージ性が含まれているために残ってきた、という考え。
この世界に存在するありとあらゆるものは意味があるから存在している、使い道があるから存在している、その観点から神話というツールの歴史上の使い道、という視点です。
例えば神話が事実か嘘かはそこまで問題でなく、神話に描かれる英雄の冒険譚に憧れた者が実際に歴史を築いていくこと。
神話に描かれる神々が妙に人間臭さがあり、その子孫であると主張する者が王族になることに何か説得力がもたされること。
単純に物語に励まされ明日を生きてゆけること。
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前置きが長くなってしまいましたが今回は「タケミナカタ」について、この4の観点からお話ししていこうと考えています。
5、神話などに意味も価値もなく、ただ偶然に残ってきただけのもの、という観点
おそらく世間一般の方はこの観点に立っているのではないでしょうか。
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本題に入ります。
▼本題 タケミナカタについて
長野県の諏訪大社で祀られ、諏訪大明神と称される「タケミナカタ」。
古事記において出雲の国譲りの段に登場し、天孫に出雲国を明け渡すことに唯一抵抗し、武甕槌(たけみかづち)と戦闘になり、敗れ、長野県の諏訪まで逃れ、鎮座したとされます。この際に追ってきた武甕槌に「自分はもう2度と諏訪からは出ない。国も譲る。だから命だけはとらないでくれ」、と命乞いしたとあります。なんだか情けない神様のように感じてしまいますね。
ですがそんな情けない神様がなぜか「武神」として坂上田村麻呂、源頼朝、武田信玄、徳川家等々、名立たる武将たちに丁重に祀られているのです。不思議ですね。
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前提として「タケミナカタ」には様々な考え方があります。以下に一例を列挙させていただきます。
・古事記のタケミナカタ神話は当時の厄介者であった諏訪地方の品位を下げるための捏造である。諏訪国造家、大祝(おおほうり)金刺(かなざし)氏、多氏(おおし)は同心円上にあり、大祝家が親戚関係で記紀の編纂に関わる太安麻呂にこの神話を書かせた。実際はタケミナカタ神話に象徴されるような出来事は一切ない。
・タケミナカタと諏訪大明神は違う。古事記はそもそも明治時代まで顧みられることはなく、一般的にタケミナカタの神話を知る者は多くなかった。武神として崇められる諏訪大明神はあくまで神仏習合時代の存在。
・タケミナカタ(諏訪大明神)がいくつかの神の集合であること。
度々タケミナカタと同一視される神々を下記に列挙します。
・伊勢津彦(いせつひこ)
・長髄彦(ながすねひこ)
・天香々背男(あめのかがせお)
・ミホススミ
ここに味鋤高彦根(あじすきたかひこね)という存在も追加したいと思いますがそれらは別の機会とします。
ちなみに過去の私の記事では「建御名方=物部守屋」としました。
様々な神の集合であるのだから、そのうちの一つに武神の神格があるのはおかしくないといえます。
ここまで見てきた内容は最初に触れた神話に対する捉え方の「3」にあたるアプローチの仕方です。今回皆さんに提示したいのは「4」の捉え方、つまり、「タケミナカタ神話という物語が持つメッセージ性」についてです。このことに触れるために記紀の国譲り神話を少し詳しく見ていきましょう。
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{出雲の国譲りの物語}
「出雲の王、大国主」
神代の時代、出雲という国があり栄えていました。それを見ていた天界の天照大神(あまてらすおおみかみ)は使者を派遣し自分達に出雲を明け渡すよう要求します。出雲の王、大国主(おおくにぬし)はその使者を丁重に扱い、懐柔することで自分たち側に取り込んでいきました。
「天稚彦と味鋤高彦根」
いつまでも使者からの報告がないことに痺れを切らした天照は次の使者として天稚彦(あめのわかひこ)を送る。しかし、稚彦も大国主の人柄に惚れ、なおかつ大国主の娘、下照姫(したてるひめ)を妻にしました。
またもや報告のないことに不信感を抱いた天界の勢力は鳴女という雉に稚彦の動向を捜査させます。それを見つけた稚彦は鳴女を矢で射る。その矢は天界まで届き天照と高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の元まで届きました。高御産巣日はその矢を使って誓約(うけい)を行います。誓約の内容は「天稚彦に邪心があるならこの矢は稚彦を貫く」というもので、その矢は放たれ、稚彦の胸にあたりました。
稚彦の葬式では稚彦の父母や妻の下照姫、そして下照姫の兄、味鋤高彦根らが参列しました。味鋤高彦根と天稚彦は友人であり、また容姿がそっくりであったのです。それを見た稚彦の父母は息子が生き返ったと喜び、味鋤高彦根の元に駆け寄ります。しかし、味鋤高彦根は死人に間違われるという行為に怒り、暴れ回り喪屋をめちゃくちゃにしてしまします。余談ですが出雲では死を穢れとして強く遠ざける風習があったという考えがあります。このとき、下照姫が味鋤高彦根の「名を明かす歌」を詠んだことで騒動は止んだとされます。味鋤高彦根と下照姫の動向はこの後不明となります。
「武甕槌と布都主」
天稚彦の一件で交渉は無意味と悟った天界勢力は武力行使を決定しました。そこで派遣されたのが武神の武甕槌と刀神の布都主(ふつぬし)であります。派遣された二神に対し大国主はこれまでのように話し合いを持ちかける。しかし、武甕槌は「話し合いはしない。譲れ」と主張します。大国主は「自分は引退して二人の息子に国の統治を譲っています。その二人にあたってください」と言いました。その二人の息子が事代主(ことしろぬし)と建御名方(たけみなかた)だったということです。
「事代主と建御名方」
武甕槌と布都主はまず事代主の元に向かいます。事代主は国を譲ることを承諾し、天逆手(裏拍手)を打って、船を青柴垣に変えて海に身を投げたとあります。
ここで武甕槌と布都主の前に現れたのがタケミナカタでした。タケミナカタは千引岩を抱えて現れたとあります。前述した通りタケミナカタは国を譲ることに反対し、武甕槌と戦闘になります。タケミナカタが武甕槌の手を掴むと武甕槌の手が氷の刃に変わり、驚いて手を離した隙に武甕槌はタケミナカタの手を掴みぐしゃぐしゃに潰してしまいます。タケミナカタは恐れてその場から逃げ出します。そして諏訪まで辿り着きました。そこまで追ってきた武甕槌に対し、国を譲ること、自分は諏訪から出ないことを条件に命乞いをします。
武甕槌はそれを承諾。
これにより国譲りは完遂されました。
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「物語の終わり」
大国主はせめて自分を祀る大きな社を建ててくれと要求し、これが出雲大社となります。タケミナカタが鎮座する地には諏訪大社が建てられました。事代主が身を投げた地は美保神社が建てられました。そして国が譲られたここ日本に天照の孫で皇統に繋がる邇邇芸(ににぎ)が降臨することになるのです。
・脱線話
話が脱線しますがいつかのための重要な点であるため書き込みます。
一般にタケミナカタがかかえてきた千引岩は「千人でようやく引くことができる巨大な岩」という意味で解され、タケミナカタの力持ちを象徴していて、このときの千引岩は竹島になったとの伝承があります。私はこの解釈に疑問です。
諏訪元宮とされる場所があります。
徳島県名西郡の多祁御奈刀弥神社です。そこの境内に千引岩ではないですが力石と呼ばれるものが置かれています。由緒によればタケミナカタと武甕槌が力を競い合ったときの石だとされます。それは二人いれば持ち上げられそうな大きさです。そもそも、タケミナカタと武甕槌の戦闘が相撲の起源、と一般的に言われますがどこが相撲なのでしょうか?記紀で千引岩が登場した他の場面があります。伊弉諾(いざなぎ)と伊奘冉(いざなみ)の離婚の際、現世と黄泉の境目として置かれたのが千引岩です。それを抱えていたタケミナカタ、というのは伊奘冉の封印や黄泉に関わる呪術の神にあたる、と捉えるべきではないでしょうか?そう考えた時、武甕槌が手を剣に変えたというエピソードも呪術の力比べをしていた、ということになり、物語の整合性がとれる訳です。
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話がかなり長くなってしまいました。結論に移ります。
▼結論
日本書紀には国譲りの終わりに大国主から武甕槌に次のようなことが発言されたことが書かれています。
「事代主の名の元に国を統治すれば人々の反発は起きないであろう」
おかしくないですか?事代主は海に身を投げています。この時点で既に存在していません。それなのに事代主はこの後長年生き続け、娘を神武天皇に嫁がせているのです。
この事代主って誰なんでしょう?
私は味鋤高彦根と考えています。
裏で天孫族と手を組み、娘を嫁がせて、事代主に成りすまし、国の乗っ取りを画策したことが推察されます。
このとき、出雲の王族たちの行動を辛口に振り返ってみましょう。
・大国主
自分は引退しているからと我関せずの態度で息子たちに責任を押し付けた
・事代主
戦うことをせず自死を選ぶ
・味鋤高彦根
裏で謀略を重ね自らの私利私欲で動く
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もしあなたがこの国の国民であったときどう思いますか?
「自分たちは王族に見捨てられた」
「裏切られた」
「悲しい」
「悔しい」
「王族達が戦わないなら自分たちが戦うしかない」
そんなふうに思ったかもしれませんね。
だからこそ王族として最後まで戦う存在が必要だったのです。
タケミナカタはそのために立ち上がったのでしょう。
勝つか、負けるかそんなことは関係ありません。
人々の悔しさや恨みを背負うため、
出雲の王族と国民の名誉のため、
自分一人が戦うことで余計な犠牲が増えることを避けるため、
ケジメとして、
区切りとして、
前へ進むため
タケミナカタの母親とされる高志国の女王、奴奈川姫。
現在は新潟県糸魚川市にその銅像が建てられています。
そこには母の奴奈川姫の足にしがみつく、いかにも「おぼっちゃん」という印象を受けるタケミナカタがいます。
きっと根は甘えん坊で気弱な王子様だったんでしょうね。
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そんな彼が、そんな彼だけが最後まで戦ったのです。
もしかしたら、そんな彼だからこそ、だったのかもしれません。
彼の生き様を一言で表すのであれば、
「武士道」
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この一言に尽きるのではないでしょうか。
だからこそ、名だたる武将達が信仰していた、と考えたら、素敵じゃないですか?
そして「武士道」。
まさに現代の私達が忘れてしまったものであります。
もしかしたら、
それを思い出すためにこの神話は残っていた?
▼最後に
こんな長い文章を読んでいただきありがとうございます。
私が(どうなんだろう)、と思うことは冒頭で触れた神話に対する捉え方で「4」があまりにも少ない、ということです。
多くの古代史や伝承の学説や考察に「心」を感じられないのです。
少し触れたことですがタケミナカタ神話は当時の政権中枢の思惑で入れ込まれた悪意ある捏造、と考える方々がいます。
もしかしたら事実はそうなのかもしれません。
ですがタケミナカタの物語に心を動かされた人がいて、その人も歴史の一部だったとすればどうですか?
「歴史の捏造」だと、「特定の人々を貶めている」、と強く主張することが実は「歴史の捏造」や「特定の人々を貶めている」、という側面をもつことになるかもしれない。そんな視点も必要なのではないでしょうか。
知識で頭でっかちにならないように、心を育てる努力をしましょう。
大丈夫。私もですから。
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