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「聴け、耳を塞げ」アメツチイマダワカレズノカミ「目を閉じて視よ」

この記事はアプラクサスという存在について、河合隼雄さんの著書から引用させていただきます。

ここに記す内容は、私のこれまでの記事と、これからの記事全体を通して表現したいことに密接に関わっています。非常に重要な内容なため、長くはなってしまいますが、割愛せず引用させていただきます。


以下より引用

アプラクサス
 小説『デミアン』の冒頭に、みごとに二つの世界の存在を描いてみせたヘルマン•ヘッセは、「第三の道」を示唆するものとして、アプラクサスという神の名を見出した。
 「鳥は卵からむりに出ようとする。卵は世界だ。生まれようとするものは、ひとつの世界を破かいせねばならぬ。鳥は神のもとへとんでゆく。その神は、名をアプラクサスという。」
 神的なものと悪魔的なものを融合するというアプラクサスは、二つの世界の葛藤に苦しむ多くの青年の心を惹きつけた。ところで、ヘッセはこのアプラクサスをユングを通じて知ったのではないかと考えられる。ヘッセがユングの弟子ラングの分析を受けていたことはよく知られている事実である。ユングとヘッセは直接出会っているし、手紙のやりとりもある。次に紹介するユングの「死者への七つの語らい」の中にアプラクサスの名が記されているが、これは『デミアン』の出版より三年前にユングによって個人出版されたものである。
 ユングは一九一六年に、それまでの彼の凄まじい内的体験を基にして、ひとつの小冊子を個人出版した。これは言うなれば、彼個人の第三の道を示す神話であるということもできるが、彼はこれを「東洋が西洋に接する町、アレキサンドリアのバシリデス著」という匿名を用いて出版し、親しい友人や知己にのみ贈った。彼は後になって、それを「若気のあやまち」と呼んでいたが、彼の死後出版された『自伝』の付録として一般に公開することに同意した。われわれはそれによって、その内容を知ることができるのである。
 「死者への七つの語らい」は、「使者たちは、探し求めたものを見出せず、エルサレムより帰ってきた。彼らは私の家にはいり、教えを得ることを願った。そこで、私は説き始めた」という言葉で始まっている。これはエルサレムに求めていたものを見出せず、むなしく帰ってきた死者と、賢者バシリデスとの対話という形で書きとめられている。バシリデスはまず、「聞け、私は無から説き起こそう。無は充満と等しい。無限の中では、充満は無と同じだ。無は空であり充満である」と説き、あらゆる現実的な存在の根源としての無あるいは充満を「プロレマ」と名付けることからはじめる。この根源的存在プロレマから個体化の原理に従って、個々の現実存在が分化する。そして、それらの存在の特性は対立的存在としてあらわれ、活動と停止、善と悪、生と死などとなる。かくて、神もプレロマとは異なり、一つの被規定者として、その対立するものとしての悪魔をもつ。
 神と悪魔は、われわれがプレロマとよぶ無の最初の顕れである。……
 神と悪魔は充実と空虚、生産と破壊によって区別される。「はたらき」ということは両者に共通である。はたらきは両者の上に存在し、神の上の神である。なぜなら、それはその働きによって充満と空虚を一にするからである。
 これはお前たちの知らない神である。人類がそれを忘れ去っていたからである。われわれはそれを、その名に従って「アプラクサス」と名付けよう。それは神や悪魔よりもなお不確定なものである。
 神をアプラクサスから区別するために、われわれは神を「ヘリオス」あるいは太陽の神と名づけよう。……
 アプラクサスは太陽の上に存在し、悪魔の上にも存在する。それは不可能な可能性であり、はたらきのないはたらきである。もしプレロマが一つの存在であるとするならば、アプラクサスはその顕れである。……
 バシリデスの解く神アプラクサスの名を聞いて、死者たちは騒然となる。彼らはキリスト教徒たちであったから。しかし、死者たちは、「至高の神についてさらに語れ」と叫ぶ。彼らに対して賢者は次のように語った。
 アプラクサス語ることの難しい神である。その力は、人間がそれを認めることができないので、最大ある。人は太陽から最高の善(summum bonum)を、悪魔からは最低の悪(infimum malum)を経験するが、アプラクサスはあらゆる点で不確定な「いのち」、善と悪との母なるもの、を経験する。……
 アプラクサスの力は二面的である。しかし、お前たちの目には、その互いに対向する力が相殺されてしまうので、それを見ることができない。
 太陽の神の語るところは生であり、
 悪魔の語るところは死である。
 アプラクサスは、しかし、尊敬すべくまた呪わしい言葉を語り、それは同時に生であり死である。
 アプラクサスは同一の言葉、同一の行為の中に、真と偽、善と悪、光と闇を生み出す。従って、アプラクサスは恐るべきである。
 アプラクサスは、一瞬のうちにその餌食を倒す獅子のごとく素晴らしい。それは春の日のごとく美しい。それはまさに偉大なる牧神(パン)そのものであり。また卑小なものである。それはブリアーポスである。
このように語られるアプラクサスは「原初の両性具有」として、あらゆる相反するものを包摂する存在となる。
 それは愛であり、その殺害者である。
 それは聖者であり、その裏切り者である。
 それは昼の最も輝かしい光であり、狂気の最も深い夜である。
 それを見ることは盲を
 それを知ることは病を
 それを崇めることは死を
 それを畏れることは知恵を
 それに抗しないことは救いを意味する。……
 お前たち太陽の神に乞い求めるものはすべて、悪魔の行為をよびおこす。
 お前たちが太陽の神と共に創り出すものはすべて、悪魔の働きに力を与える。
 これがまさにおそるべきアプラクサスである。
このようにアプラクサスについて語られるのを聞き、死者たちは吼え、荒れ狂った。すなわち、彼らは未完のままにされたからである。このため、賢者バシリデスの語らいは七話までつづき、最後に「死者たちは沈黙し、夜中に家畜を見守る牧者のたき火の煙の如く、立ちのぼっていった」という。
 しかし、われわれとしては、この「東洋が西洋に接する町、アレキサンドリアに住む賢者の言葉を最後まで追い求めることはやめにしておこう。極東の特異な島国に住むわれわれとしては、善と悪、光と闇、その他さまざまな対立のなかで、われわれ自身の「第三の道」を見出すことを、自らの力でやり抜いてゆくべきではなかろうか。

河合隼雄 著作集 2 ユング心理学の展開

上記の内容には重要な内容がいくつも含まれています。

「第三の道」、「東洋と西洋が接する町」、「いのち」、「偉大なる牧神、パン」、「卑小なるブリアーポス」、「原初の両性具有」、「未完のままにされた」、

そして「極東の特異な島国に住む我々」

ところで、この内容は下記の私の記事と内容がよく似ているとは思いませんか。


それらは「同じ」なのか、それとも「同じように見えて違うのか」、もしくは、「同じ」も「違う」も「一つ」のなのか。


ある職人の言葉を私はよく思い出す。

「極めるために不必要なものを削いでいくことと、楽をするために(やらなくてもいいや)、とするのは見かけはとても似ている。」
「しかし、その内実は全く違うのだ」

「その違いを他人はどう判断すればいいのですか?」

「自らも極めることだ。そうすれば同じ者がわかるようになる」

そうやって辿りついた「穏やかさ」と、傷つかないために、感じないように「無」を装うことはとても似ている。

けれど、その内実は全く違う。

その違いを他人はどう判断すればいいのだろうか?

あなたも「正義」に一歩踏み出すのだ。

その内の1人が言った言葉も私を強く貫いている。

それは「本当の正義の心とは穏やかなもの」という言葉。



「ガワ」だけに目を取られてしまうとわからないのかもしれませんが、私はずっと諏訪信仰についての記事を書いているのです。

「アニマ「裏」タケミナカタ神話「裏」アニムス」|大花 町



タケミナカタと敵対するタケミカヅチ。
単純な思考パターンですが、敵対する者同士でありながら名前が似通っているようには思えませんか?これはつまり、旧支配者と新支配者、勝者と敗者、それら二つが対となるセットであり、二つが対として在ることが、「出雲の国譲り」という「存在(元型やイデアといえるもの)」なのではないか、ということなのです。

そして、この「存在」を日本神話では「出雲の国譲り」と呼んでいるだけで、別の呼び方をすれば、「縄文と弥生」とか、「古代と現代」とか、「東洋と西洋」だとか、「ディオニソスとアポロン」だとかと呼ばれる、ということなのです。

けれど諏訪大社の本質的な、もっと深い部分の信仰は「アプラクサス」、もしくは、「極東の特異な島国に住む我々」が生み出す「第三の道」であると、私は考えているのです。


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オオヨシキリの巣に托卵された格好の卵イラスト - No: 25646925|無料イラスト・フリー素材なら「イラストAC」

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