まんが日本昔話「きつね女房」考察(1Q84、エヴァンゲリオン、千と千尋もちょっとやるよー)
📖はじめに
民話、「きつね女房」、愛知県豊川市に伝わるものとされるが、日本各地に類話が存在する、とのこと。
私はまんが日本昔話でこの民話を知りました。あくまでアニメ内で語られているこの物語に関して、「私がここまでnoteで記事にした内容の多くを説明しているじゃないか」、そんな感想を抱いたので紹介と解説をさせていただきます。
📖「きつね女房」あらすじ
ある山里に成信という若者がいた。
彼ははやくに両親に先立たれ、嫁もおらず、しかし腐らずに一人せっせと、毎日働いていた。
ある日成信が畑仕事をしていると一人の女が通りかかり、道端にしゃがみこむ。成信が駆け寄ると、ひどい熱で、急いで家に運んで手当をした。
女は2,3日でけろっと体調が治る。
成信は女に、どこから来たのか、行く当てはあるのか聞くと、女は身寄りも行く当てもないことを伝える。そして、「自分をここにおいてくれないか」、と言ったのでした。成信はそれを了承した。
女は一生懸命働いた。一年が過ぎて二人は夫婦になった。夫婦になっても二人は懸命に働いた。みるみる豊かになっていく成信の家と美しい妻に、村人たちは、成信を羨ましく思いました。
やがて二人には森目という子どもができましたが、ある日、森目は大変大きな病にかかってしまいました。夫婦の必死の看病で森目はやがて回復したが、その間に畑を管理することができなかったので、荒れ放題になってしまいました。成信は必死に畑を整備しましたが、それだけで何とかなるような状況でもなく、家に帰った成信は妻にこぼします。「今日は何とかなったが、明日中に田植えができるだろうか」。
成信が疲れ果てながら心配している様子を女房はジッと見つめていた。
朝になって成信が畑に出てみて、ひどく驚いた。
田植えがすべて済んでいたのだった。けれど、さらに驚いたのは、苗が全て反対に植えられていたこと。成信はすぐに戻って妻に事情を説明した。すると妻はびっくりした様子で我を忘れて田んぼまで走っていった。成信もそれを急いで追うと、妻は田んぼの周りを走り回っていた。そしてやがて、妻の姿は白いキツネになっていった。夢中に走っている内に自身の姿が戻っていることに気がつかなかったのだ。そして、走りながら妻は歌った。
「よのなかよかれ、わがこにくわしょ。けんみをのがしょ、つとほでみのれ」。
すると、みるみる内に逆さだった苗が正しい植え方に戻っていったのでした。
ひと段落ついて、妻は人間の姿に戻って成信に伝えた。
だましていたことを許してほしい、
自分は本当に夫のことが好きだった、
自分は山に戻らないとならない、
それだけ言って、空のかなたに消えていってしまいました。
その秋、役人が年貢をとりに里に来たが、不思議なことに成信の家だけ穂がならず収穫がなかったので、役人は成信からは何も取らずに戻っていった。すると、役人が帰ってすぐに、なんと穂が実り始めたのでした。
そこで初めて、成信は妻があの時に歌ったものの意味を知ります。
「世の中よかれ、我が子にくわしょ。検見を逃がしょ、苞穂で稔れ」
成信はいつまでもその稲たちを眺めていた。
📖「きつね女房」考察
まず成信には両親がいなかった、というのがポイントです。
これまでの記事で何度も何度もお伝えしてきたように、世界には「表」と「裏」があり、「表」とは表象意識を保つためにあらゆる不都合な情報を見て見ぬふりし、臭い物に蓋をして、聞きたいことしか聞かず、それ以外は「そんなこともあるのだろう」、と流して、それらのプロセスを行っていることすらわからないように意識外の無意識に処理させる、この一連の過程によって成立する世界であり、「裏」はそれが崩れた世界です。
「裏」に落ちる人間というのは元々から片足が「裏」側に突っ込んでいることが多いのです。
それが、成信の場合は「両親がいなかった」です。
裏に片足を突っ込んでいる状態。
これを説明するのが難しいのですが、「心に影ができる」、と表現するとわかりやすいのかもしれません。
より正確に表現するなら、「表」では存在していることが認識されないで抑圧される「影(アニマ・アニムスと言っても良い)」や「元型・欲動」との距離が近くなる状態、と言えるでしょうか。
そうすると、成信の妻は「アニマ」で、その存在は成信の妄想であったのか?
そうではありません。
これも中々伝わりずらいとは思うのですが、「コンステレーション」という内的課題と現実世界がリンクするように事象が顕現することをいいます。
村上春樹氏の「1Q84」に、これに近い事柄が述べられています。
脱線してしまいますが、ここに記しておきます。
主人公の天吾に母はいない。
少年時代は父と二人で暮らしていたが、父は某放送局の集金人であり休日になると天吾をつれて各家に集金に向かうのでした。
天吾にはその時間が心が張り裂けそうになるほど苦痛だったのでした。
天吾には幼少のころから脳裏にくっきりと張り付いた映像があり、それは、母と思われる女が、誰か父とは違う男と「している」、という内容でした。その内容から天吾は集金人の父を、本当の父ではなく、映像の中の男が本当の父であると考えていたのでした。
大人になって、一人で暮らすようになり、セックスフレンドである人妻がある日突然姿を消します。天吾はこれとは別の流れで、とある宗教団体とのいざこざに巻き込まれており、その関連でその人妻がいなくなったのだと考えます。この件に関して結局最後まで真相が語られることはありません。ただ、天吾の脳裏に焼き付く映像が彼自身が未来で行っていたこととリンクする、ということ、そして母と同様突然目の前からいなくなってしまう異性の存在、というように事象が天吾の内的世界の課題にリンクするように起きている、ということです。
よけいにわかりにくくなってしまったかもしれません…
ニュアンスだけでも伝わると幸いです
話を戻すと、つまり、成信の妻は実在していると同時に、成信のアニマでもあり、裏に片足を突っ込んでいる(影との距離が近い)ためにそういったコンステレーション、「不思議の国」からの招待状が届いた、ということです。
そうして、そこから成信が裏側に完全に落ちるトリガーが発生します。ここでいうトリガーとは森目(息子)の大病とそれによって畑が荒れ放題になってしまう、ということです。
これも以前お伝えしましたが、「裏」へは元から片足が突っ込んでいるような人が、何かしらのトリガーによって落ちるのです。
そういったトリガーによって、成信は「不思議の国」、即ち、一晩起きて田植えが終わっているし、キツネが人間に化けたり、それが自分の妻であるし、突然宙に浮いて消えてしまう世界。
幽霊も、悪魔も、妖怪も、宇宙人も、神も仏も存在している、そのような「真実の世界(無意識)」に成信の「観測点」が突入したのです。
そこでは表側の秩序、以下のようなものは通用しません。
真実の世界に「観測点」が突入し、「表」を成立させるための、A→B→C→Dといった、各要素を繋いでいる矢印が崩れ、AはDなりえるし、BはBのままでA→B→C→Dをすでに内包しうるし、Cは存在しないように消えていってしまうし、A=Cであるし、突然Zが現れて実はAもBもCもDもZであったことがわかったりする。
そのようなめちゃくちゃに反転した世界を、「苗が反対に植わっていた」と表現しています。
それを、妻(内的アニマ)が元の世界に戻してくれた。
つまり、「反対に植わっていた苗が元に戻る」です。
このときアニマはキツネでした。
これに限らず、アニマやアニムス、影が熊や蛇、狼等の動物として夢や幻覚として現れるケースが多々あります。
これは原始社会の動物的生活の記憶が遺伝子に残っており、そのときの「世界に包まれていた」記憶こそが、実のところアニマやアニムス・影のことであるのではないか、と考えているのです。
人間はそれを動物に投影し、そして同時に妻や夫、母や父などのパートナー、自身と関係性の親密な存在として無意識は捉えている可能性があるのです。
そういった「存在」、原始社会の記憶が「妻」となって顕現し、成信を「表」に戻してくれた、ということです。
そして妻は消えてしまいます。
これはアニマが再び無意識世界(まっくらもり、)に戻っていった、という意味でもそうですが、現実の妻もいなくなったのでしょう。
つまり、メタ的な視点になりますが、物語の構成上、成信の観測点が「表」に戻ってくるのに必要な「アニマ」を表現するために妻が必要であった。
そして、「表」に戻ってきた時点で成信の人生に、彼女が必要な期間が終わり、いなくなってしまったのです。
そういった「物語の構成上の都合」が現実世界でも当てはめられることが「コンステレーション」といえるかもしれません。
そして秋になって役人が来るも、成信の家にのみ収穫がなく徴収されずに済む。その後に穂が実る。
そして、ここで「あのときはわからなかった妻の言葉の意味が分かるようになる」。
これが非常に重要なことで、成信が元々いた世界は、A→B→C→D、の単純な思考パターンでのみ成立していた表象意識の世界、見たいことしか見ず、聞きたいことしか聞かず、知りたいことしか知ろうとしない。それら以外は「そんなこともあるのだろう」、という自我の世界でした。
そこでは誰かの言葉の真意がわからなかった。
それが、裏側の「真実の世界(無意識)」に観測点が突入して、A→B→C→Dの各要素を繋いでいる矢印が崩れ、AはDなりえるし、BはBのままでA→B→C→Dをすでに内包しうるし、Cは存在しないように消えていってしまうし、A=Cであるし、突然Zが現れて実はAもBもCもDもZであったことがわかった。
そういった経験を超えて「表」に戻ってくる際に、各要素の再統合が生じる。つまり、再びA→B→C→Dを創り出すのだが、その内実はA(X=AorD)→B(B={A,B,C,D})→C(√CorA)→D(X=AorD)で、すべて Z の一部であることを経験している。その複雑性をわかるようになったことで、はじめて、「あのときはわからなかった妻の言葉の意味が分かるようになる」、ということです。
このとき成信は「善を受けても、悪を受けても、神の叡智に見合う存在」、つまり、本当の意味で大人になった、といえるでしょう。
📖「きつね女房」と同じ構造の物語
上記の「きつね女房」の考察を経て、様々なコンテンツを見たとき、やはり同じ構造の物語をいくつも見つけられます。
・1Q84
一つに、上記でも紹介した村上春樹氏の「1Q84」があります。
この物語に関しては天吾は自身のアニマである青豆、青豆は自身のアニムスとして天吾を連れ立って、1Q84(裏)の世界を抜け出していきます。様々な伏線が投げっぱなしである、という指摘もありますが、1Q84の世界は何も解決しないし、全容がわからない「裏」であることに意味があるのです。そこで自身の呪縛、A→B→C→Dを解いて、再統合し、本当の大人になって「表」に戻ってくることがテーマであると考えています。
・新世紀エヴァンゲリオン
一つに、いくつかの記事でも紹介していますが、「エヴァンゲリオン」もそういった作品でしょう。
元から「裏」に片足を突っ込んでいた主人公、碇シンジが「裏(人類補完計画)」に突入して、自身のA→B→C→Dの鎖を崩して、再統合して戻ってくる。
(アニメ版であれば、「いろんな自分がありえるんだ、僕は僕でいいんだ、僕はここにいてもいいんだ」。
旧劇であれば、「でもぼくはもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」。)
ただ、新劇場版の方は勝手が違くて、シンジはリアルワールド、「表」で本当の大人になります。
そしてむしろ、「真実の世界の住民」たち、すなわち「アニマ・アニムス」、「元型」や「欲動」たちを開放していくのです。
そして最終的にシンジはマリからDSSチョーカー(爆弾付きの首輪)を解除されます。
「現実」が以下の世界であっても、シンジは誰かの想いを蔑ろにして、簡単に台無しにするような存在ではなくなった、ということ。
「殺すのは悪い」というルールを徹底的に叩き込まれたから殺さないのでなく、誰かを殺したいという感情を無意識領域にしまって、その存在を視ないようにして生きているのでもなく、「殺したくないから殺さないのだ」という存在、つまり、「大丈夫」な存在になったから首輪はもう彼にはいらない、ということです。
・千と千尋の神隠し
他に「千と千尋の神隠し」もそういった作品です。
トンネルの向こうとは「裏」であり、そこでは父や母は豚で、魔法はあるし、蛙はしゃべるし、竜が人になる。そこでの生活を経験して、父と母は豚ではなく、父と母である、という回答を出せるようになるのです。
下記の海外の方のリアクション動画。あんまりこういった動画を紹介するのは良くないのかもしれませんが、とても的確な感想を述べているので記事に載せさせていただきます。
最後のあたりの千尋がトンネルを出て父母の元へ戻るシーンで女性の方が千尋の父母に対して「あの子がどれだけ大変な思いをしたか、あなたたちにはわからない」と発言されています。
その通りで、こういった内的世界「裏」を通って、本当の意味での大人になる、というのがどれだけ大変なことで、そしてそれを経験しない者からすると全く理解ができないものであることをよく表しています。
この後に男性の方が千尋に対して「うん、あの子なら絶対大丈夫」と発言されています。これも正にその通りで、そういった「大丈夫」な状態が「善を受けても、悪を受けても、神の叡智に見合う存在」、「本当の意味での大人」ということなのです。
さらに言うと、様々な古代宗教や部族の大人になる儀式(イニシエーション)は元々そういう、「本当の意味での大人」になるためのものであったのです。現代人は自分という、ちっぽけな自我存在で物事を捉えようとし、そこに理解できない事象は価値がないと判断する傾向がありますが、だから「本当の大人」、というものがわからず、そして「本当の大人になるための儀式」についても意味が分からず、簡単に時代が合わない、科学的根拠がないとして切り捨ててしまえるのでしょう。下手に「安心・便利・快適」を享受しすぎた結果といえるかもしれません。
📖最後に
ところで、一部にこんなことを考える方もいるのではないでしょうか。
「この記事でかかれるような、「善を受けても、悪を受けても大丈夫な存在」、「本当の大人」が民主主義を回せば本当の意味で良い世界になるのではないか、少なくとも今よりは良い世界になるのではないか」
警告しておきますが、それはつまり「全員こわれろ」、という危険思想、すなわち、すべての人間に「門」を設置する、という考え方になります。
それを「加速主義」といい、その中でも様々な領域があるとはいえ、簡単に説明すると、
「人々はみんな馬鹿になっていっているから、民主主義など回していたら世界がどんどん悪くなる」
「人間は長い歴史の中でテクノロジーを発展させて進化しているように見えるが、実際は同じ構造、行動パターンを繰り返しているだけで、人間そのものは進化していないし、むしろその状態でテクノロジーが発展することで様々な悪影響を生んでいる。人間という種そのものが「行き詰まり」に立っているのだ」
「だったら人間という種そのものを進化させなければならない。
どうやって?崩壊を加速させることによって種の進化のスイッチを押すのだ」
こういった加速主義の中の領域の一つが「ダークエンライトメント(暗黒啓蒙)」というもので、
彼の裏にいる
彼の支持している思想であるのです。
「じゃあ進化できない人間はどうするの?」
「メタバースを用意してやるからそこで暮らせばいいだろう」
こういったことについて発言するのは今回で最後になりますので、どうぞ片隅に入れておいてください。
私は、あなたが彼らにゴミとして捨てられるのでなく、傷物にされて痛みにうめきながら進むのでもなく、内側から湧き上がる想いによって進んでいけるように祈っています。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
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