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雲がある詩

雲がある。

中原中也の詩を読んだとき、そう思った。

私はいわゆる文豪と呼ばれる人たちの作品を読んだことがほとんどないタイプの読書好きで、中也くんについても、「汚れっちまった悲しみに……」の文字を見て、あぁ、聞いたことある、と思った程度でした。
(つい、いつものくせで、中也くん、と書いてしまいました。私はなぜだか、有名人とか歴史上の人物に「くん」とか「ちゃん」とか「さん」とか、あだ名とかをつけて呼んでしまうのです。このまま進みますが、お許しください。ではでは、本題に戻ります。)

彼の詩集を手に取ったのは偶然で、図書館に行ったとき、ぷらぷら歩いていた本棚の「ナ」の段に、それがあったからでした。
なんとなく手に取って、目次を見て、「汚れっちまった悲しみに……」のページを見たとき、たまには、こういうのを読んでみてもいいかもしれない、と思って借りることにしたのです。

この詩集を読んだとき、それぞれの詩について感じる部分は、ありました。
リズムを心地よく感じたり、よくわからなかったり、初めて出会う言葉に揺れたり、やっぱりわからなかったり。
詩を読むことに慣れていない私は、どう読めばいいのか、どう感じればいいのか、戸惑うことの方が多かったけれど、その詩の中に入れたような感覚になる瞬間もあって。
私なりに、彼の詩と向き合えた時間だったと思います。

そうやって、読み終えたときに感じたのは、冒頭の、雲がある、ということ。
一つ一つの詩には、あえて単純な表現をすれば、明るいとか、暗いとか、そういう雰囲気の違い、描いているものの違い、というものはあります。
しかし、どんなに晴れやかに思える詩でも、快晴ではない、と感じました。
明るいけれど、晴れではあるけれど、ふと横を見ると雲が浮かんでいる。
晴れ渡った空にある雲、どんより垂れ下がった雲、雪の上の雲。
色や形はさまざまだけど、いつもどこかに雲があるような気がしました。

よく、似たような表現で、影がある、という言い方があるけれど、中也くんの詩は、それとは違うように感じました。
そんなにいつも暗いわけではないというか、もっと移り変わる、変化のあるもののように感じました。
もしかしたら、彼の詩では、たびたび、自然が描かれるからかもしれません。
自然のように変化する、そういう印象を無意識のうちに受け取って、「雲」を連想したのかもしれません。

今回読んだ詩集のタイトルは「汚れっちまった悲しみに……」。
だから、彼の全ての作品が載っているわけではありません。
このタイトルと何かしらつながりがあったり、一緒に読むことで何か意味を見つけられたりする、そういう詩が選ばれているのだと思います。
だから、ほかの、読んだことのない作品を読めば、今回抱いた感想とは違う気持ちになるかもしれない。
でも、その気持ちの変化さえも受け流してくれそうな、そんな、かろやかさというか、ゆるしというか、あきらめというか、勝手に、そういう感じなんじゃないかと想像してしまっています。

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