詠金魚
出逢った素敵な物語。
泳ぐこと詠むこと。 水の中から見える世界は狭いか広いか。
醸し部由来
という不定期会。
ひねもすのたり
noteの仕様に困惑、致し方無いので放棄する。 お世話になりました。
やるべきことをやらせてこなかったと宣う人間ほど屑はない。そこまで知っとるんならやれや禿げ。やって来てないことは出来ませんよと宣う精神科医。そんな結論のために税金使っとるんか禿げ。いいから薬だけ出しとけ。それが結果論。
ひとには、幾つもの顔がある。至極当然、とは言えない。 ただ、わたしの眼球から脳への伝達よるに、ひとの顔とは様々となる。 わたしは禿げが嫌い。恐らくにそれは物理的なものになく、こゝろが禿げているようなもの。 =悪だ。 個々、苦手はあると思う。それらが造形を成したならどうだろう。例えば、林檎は放置すれば何れ腐るもの。果たしてそうだろうか。林檎は腐る。ならば腐る以前の林檎があるに必然。果たしてそうだろうか。育たぬ林檎も林檎にある。 わたしは鏡をみることがこわい。
いよいよ、点滴針を打つ部位に悩む…。
ミルフィーユ餃子のレシピを思考すればするほどラザニアになる。
ちびまゆにリクエストした曲には、もうひとつ逸話がある。シャドウダンス。わたしが振りつけて親友と遊んだ影遊びだ。いい歳したふたりが真剣だった。いつも、いつだってふたりだったんだ。疑う余地などない、ずっとふたりが必然だった。唯一、録画したひとつしか無かったビデオテープは、最期の彼女に持たせた。 彼女はわたしの二酸化炭素だ。
月がやってくる。 今年も月はやってくる。知ってたあの日を忘れたふりして永遠のリバイバルに、わたしは深くキネマシートに埋もれる。スクリーンよこんにちわ。昨日までを映してください。明日がはじまるサイレント。 蝶よ、花よと流る映写光の屈折はよく知る窓の向こう側へとゆく。なるべく温めで頼むよ。いきなり四苦八苦から始まるダイハードじゃラストまで生きていられる気がしない。そう最初は、 キリンでいい。 アカシアを喰うキリンがいい。ライオンくらい蹴散らすくらいの穏やかでいい。そ
簡易書道教室にて、子供たちに小一時間ほど墨を磨らせる。 無論、子供が黙って墨を磨るはずもなく小惨事は免れぬ。 そこに墨と筆があれば描きたくなるもの必然と、しかし自由もいいが折角なので名題をひとつ掲げてみる。 わたしの幼少期に流行った表題といえば月夜の烏だった。そこで、 月夜の烏と耳にしたものは何を思うか。 拙くも懸命に描かれた月夜の烏たちの様相とは如何に。 みるみると描きあげられたそれの自由に自由を知る。 ひとりが烏の絵を描けば、ひとりは月のなかに烏という字を描く
日曜日の病棟には幾つか色がある。 今日はグレーだ。梅雨のせいだろうか、それとも夏至を跨いだせいだろうか。 以前、他所の小児病棟で缶けりをした際は病棟統括にこっぴどく叱られた経緯がある。以来、缶けりはやめた。 日曜日の朝は憂鬱だ。 雨でも降れば、ファルセットくらいにはなれたかもしれない身空。ファ抜きではなく、息を吐く。 今日は徘徊もせず、ただ雨を待った。 いまは雨が降っている。
蛍は金魚になって、 金魚は蛍に、 そんな世の中になってしまって、 悪くはないと口で言いながら、 どうしてそんなにも溢れるの。 やめたっていいのよ。 蛍でいることや、金魚でいることを。
37兆の細胞が殺し、生かしあうだろう。 生き残りをかけた戦い。 Dr.T によれば頭髪は護られる。 首がなければ問題ではなかった。
人生において、これほどまでに虹と出逢うことがあるだろうかと悩める日だった。それは梅雨の嵐のあと。 一幅どころになく露な一対、二対とヒノヒカリを浴びるたびに現れる。数えてみれば両手に足らず、そのうちに鬼でも胎んだのかとすら問う様になる。まさに果てしない。 明日が来ると思えず、しかし今日のあることに安堵したいまがある。
林檎きらい、金魚きらい、虫きらい、世の中9割がたきらい、と同レベルにあなたがきらい。言わないけどね。ベッド内妄想。
手前禿げを人間、にんげんと宣う禿げは糞以下。糞に謝れ禿げ。
にじいろを数えていると回転ジャングルジム状態に陥る。
未だ変わらないのかもしれない。ただ、十代二十代は確固に無知が味方だった。 恥とは基礎。 ぽつり、ぽつりの過去を拾って然も仰々し飾ってやれば喜ぶこともある。そんな昔に出会う。よくと見れば、あまり変わっていないことに気づくもの。 きっと、この先もわたしは熊に執着するに違いないことだけは理解する。