何を以て正解か…
こんばんは。
kintaです。
この話は何が正しくて何が間違いなのか。
そういう問い掛けではないです。
呉々も。
この仕事をしていると日々、方々から色んな案件が舞い込んで来ます。
色んな当人がいてそれぞれに家族や生活の形があって、またそれぞれに考え、意思がある。
本当にそれは多種多様で、たかが数年関わっているだけのような第3者が口を挟んでいい話でもないと思う。
そういう葛藤を繰り返しつつ、1つの答えなんて出しようがないまま、また次々と突発的に事案が発生する。
そういう毎日を目まぐるしく過ごす。
時には忙殺されるが余りその時の瞬間的な判断で決められた役割を分刻みで潰していくようなことも珍しくなくて。
…
ある時、関係者が体に異変を起こす。
勿論、いの一番に頼るべきは医療。
医療の判断なくして僕らみたいな役割の人間は何も決められない。
それこそ思い込みで動いてしまったら大きなハンデを背負うことになるかもしれないから。
だからこそまず医療、そこからの発信を受けて不足を補うのが僕達。
大前提。
以前も書いたように医療と介護は連携を図る必要がある。
そういうことを強く意識してるからこそ医療の判断を信じたい。
ただそれが時に枷になることもある。
信じることと責任を依存することは違って、発信は受けつつも生意気に違和感を思えてしまうこともある。
個人的にそう思えてしまうのだと思う。
その違和感から関係者と相談した結果、大きな病気が思いもよらず発覚することもあって。
結果として治療ができてその人は生き長らえる確率は上がることも実際、ある。
それで思った。
老衰として天寿を全うしていたかもしれない
と考えるか
全うするのはまだ先で今は助かるべくして助かった
と考えるか。
生活の質。
これを上げるためにサポートしている仕事のはずだけど結果的に体の一部が利かなくなって生き長らえた当人にとってそれは良かったと言えるのか。
確かに病気が見つかり治療ができて、リハビリをして自宅に戻れるかもしれない。
これを良しとする、そう決める、感じるのは誰か。
人の命は1つ。
落とせばなくなる、0になる。
それは絶対的事実。
亡くなればそれで終わり。
確かにそうだけどそうまでして生きたいか。
年齢にもよると思う。
「もういい、充分生きた。」
と思ってるかもしれない。
願わくば
「良かった、まだ生きられる。」
と思って欲しいと考えてしまう自分もいる。
自分の命ではなくて自分の家族でもなくて仕事として関わっているだけの僕らみたいないち他人がおこがましくもそんな究極の良かれをしていいのか。
心底わからない。
仮に自宅に戻ったとして今までのようには恐らく暮らせない。
また自宅に戻れなかったとして施設など入れば生きているだけで多額の生活費を払わないといけない。
命はお金に替えられないから、比較する対象を誤ってるかもしれないけどある程度長く生きて
「もう充分生きた。」
と、もし当人が思っていて、関係者も同じ思いでいて、延命はしないという意思の下で老衰という診断を受け入れていたとしたら…。
僕が躍起になったその1つの行動はどういう価値があるんだろう。むしろ、余計なお世話だったのかもしれない。
無価値。
むしろマイナス。
取りようによってはそうなってもおかしくない。
でも人の命。
人として人と対峙しているだけと意識して仕事をしているからそこを軽んじずにいることは僕自身の人としてのポリシーでもある。
ただ
そんな個人的な思想で左右していいことなのか?
これも本気で思う。
人の気持ちなんてそうそうわかったもんじゃない。
そんなもの当人にしかわからない。
もう少しわかったとして家族辺りがいいところだろう。
僕は赤の他人。
当人の人生のほんのほんの一部に関わっただけの。
正解だったと思いたい場面が多々ある。
でも結局
何を以て正解か。
これは本当にわからない。
誰か教えてくんない?
この仕事、為になってんのか?