「『文法』に関しての個人的意見と、思い出すことなど」(中)

(前編はこちらです。

「『文法』に関しての個人的意見と、思い出すことなど」(上)|木ノ下朝陽(kinosita_asahi)  )

 


私が初めて国語文法というものに触れたのは、確か小学生の3年生だったかな。

あの時は、本当に「訳わかんない」状態に陥りました。

(まあ、…その時の先生が、どうにも合わないと言うか、非常に「苦手」な方だった…というのもある、…かは分かりませんが)


私の場合、幼稚園で平仮名を教わると、
すぐに、文字通り「一日中」、本棚に張り付いていた…という幼少期でして

従って、文章読解「だけ」には自信がありましたので、

正直なところ、却って文法というものの存在意義が全く理解できず、

(まあ、当時は十にもならない「お子様」でしたから…)

国語学習に関することで、自分がどうしても受け入れられないものが存在する…という、
そのこと自体が、子供ながらに結構なショックでした。


(漢字の書き取りは、
あれは修練次第で何とかなるもの、というのは、子供ながらに理解しておりましたので。

今思えば、
「品詞分解を使った読解」も、
どちらかというと、その手の、ある種のメカニカルな作業なので、
言ってみれば「慣れ」や「修練」の問題です)


ついでにお話ししますと

中学・高校では、お定まりのごとく「古典文法」に泣かされました。


ここではっきり申し上げておきます。

いわゆる「本邦の古典文学で用いられている言語」は、
確かに現代国語の基礎となった言語ではありますが、

アレは、例えば、英語圏におけるラテン語みたいなもので、

現在、私達の使っている「現代国語」とは別の言語だと考えた方が、
少なくとも、「文法」というものを受け入れ理解するのには、
ずっと早道になる考えだと思います。

私の場合は、

「ここで躓いたまま立ち上がらなかったら、絶対に上の学校なんかには上がれない」
と、一念発起しまして、

(本当に、どうにかしてでも進学したかった、…と言うよりは、
「きちんと、『きちんとした学問』のできる場所」に行きたかったのです)

取り敢えず、古典文法の参考書を、吟味を重ねたものを一冊だけ購入し、
その一冊の参考書のみをひたすら読み込んで、頭に叩き込みました。

この「参考書一冊をひたすら叩き込む」方式は、
その参考書の編集方針が
学校での学習内容から大きく逸れてでもいない限り、
他の教科でも一定の効果を上げるものかと存じます。

但し、
これは、学習する本人が
「どうしても学習の必要性がある!」
と、強く念じた場合に限ってのみ有効な方法…とも思っております。

(こちらの続編のリンクです。

「『文法』に関しての個人的意見と、思い出すことなど」(下)|木ノ下朝陽(kinosita_asahi)
 https://note.com/kinosita_asahi/n/na4e5d0853502


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