刺して泣かせる映画感想文―ルックバックのネタバレ解説―
刺さらない理由は、作品が「感情移入」に失敗しただけですが、その刃は「背中」に残っているので、深く刺せば泣かせられるのではないか?上手く泣けなかった人の落涙デトックス出来るのでは?
そんなルックバックのネタバレ映画感想文です。きっかけは以下。
引用:自分は刺さらない側の人間だったと知ってしまって、少し悲しくなった(中略)私もこの作品を理解したいんです。お願いします。(名もなき感想屋さん)
悲しむ必要ないです。特に俯瞰で見たり、原作未読だと刺さらない。そういう人には、1)典型的な死別の涙で、2)後半空想が意味不明で、泣けるはずもないですよね。少なくとも感情移入出来ていないと思います。ちょっと長いですが、解説します。
ちなみに私の感情移入箇所は実は序盤です。刺さる人は、冒頭の小学校シーンで思わぬ記憶の扉が開き、自分の物語になると思います。テレビ「はじめてのお使い」と同じです。俯瞰で見ると、「幼児虐待だろ!」とか批判できますが、一方で、泣いている幼児に感情移入してしまい無邪気に泣く大人たちが大勢いる。これと同じです。本作の「はじめての〜」は、天狗の藤野が初めて人生をかけて歩んだ茨の漫画道(昭和スポ根)です。ここで感情移入すると、痛すぎる釣り針は喉仏にガッツリ刺さって取れない。これは格闘ゲームのダウン(ブレイク)状態なので、努力・勝利・友情も全ダメ入るし、コンビ解消(ガッツ京本&グリフィス藤野)も確率で倍ダメ入る。
この時点で死別の前の状態ですから、後半ヤバイです。一方で、感情移入が無いなら、死別も「ふーん」でしょう。さらに、その後の「死の受容」が、ありがちな「生前のビデオ見た主人公が誘うように泣く」とかではなく、漫画的空想に入るので意味不明になるのも分かる。
原作者の意図は知りませんが、私が斬新で上手いと思うのは、藤野が漫画家ならではの死別の受容(グリーフケア)をする点です。
「オタクと思われちゃうよ」と世間から蔑まれる「漫画」、そして京本と歩んでプロになった「漫画」、その漫画が藤野をグリーフケアする。つまり漫画(=後半の空想)が漫画家を救済するのです。大きく2つの点を以下で解説します。
まず空想では、京本は藤野が何しようと美大に入って殺され(かけ)ます。藤野は「私のせいで」とか思うわけですが、それは思い上がりだった気づくのです。因果論で言うと、前を歩いたつもりの藤野は、京本の人生の原因になっていない。藤野は京本に影響を与えていない。実は因果は逆です。つまり、藤野は京本から影響を与えられているのが分かります。この「藤野に影響与えた京本」が空想シーンで浮き上がるポイント一つ目です。
次に空想では襲われる京本を藤野が助けますね。たぶんヒーロー幻想を抱いた事のある人はアルアルの「漫画的」妄想だと思います。でもこの救助も逆に見る事が出来るんですね。空想で京本が「連載なぜ止めた?」と問うと藤野はやる気を見せ、ラストで藤野は執筆再開する。これリフレイン(繰り返し)です。小学校時代に京本が「連載なぜ止めた?」と問うと藤野は漫画賞狙ってるなどとやる気を見せ、ずぶ濡れでネームを書きまくる。つまり漫画家藤野は京本に二度も助けられた。こんなふうに「藤野を助ける京本」が空想シーンで浮かび上がるポイント2つ目です。
ポイント1の「藤野に影響与えた京本」を物語から振り返ります。もし小学校で藤野天狗が同学年の天才京本の絵に鼻ポッキリ折られなければ「漫画が上手い奴」で藤野は止まったでしょうね。ライバル京本がいたから、初めて人生をかけて画力が上がり、漫画道が開けるわけです。そして卒業式、脱引きこもり京本が出てこなければ、引退藤野の復帰は無かった。アシスタント京本が背景を描かなければ、漫画賞も無かった。だから、今ある漫画家藤野が生まれるには、京本が必要だった。
同学年で、天才で、ライバルで、脱引きこもりで、アシスタントで、今の自分を産み出した、その京本が、理不尽に殺された。そう思うと、とても大切な存在を無くした藤野の気持ちが分かります。
だから休載する藤野ですが、そこにポイント2の「藤野を助ける京本」が空想に現れる。もう現実にはいないのですが、藤野の心の中には存在して、そして休載藤野を助けて(執筆再開させて)くれる。
藤野は鮫ヒーロー漫画を書いてますが、つまり藤野にとってのヒーローは京本なのだと思います。
だとすれば、ヒーロー京本に何故執筆再開させる力があるのか?
それは、なにより京本が「読者」でいてくれたからと思います。同学年で、天才で、ライバルで、脱引きこもりで、アシスタントで、今の自分を産み出した、そのヒーロー京本が、藤野の一番の読者だった。
つまり「空想シーン」のポイント2点をまとめると、京本こそヒーローで、一番の読者だったと、藤野は自分の人生を振り返る(ルックバック)。そして前を向いて歩みだした藤野は、天国の京本に作品を届けるため、執筆再開するのです。京本は、『永遠の』一番の読者になる。そもそも天国は人類の空想ですが、藤野にとっては漫画(=後半空想)こそが、京本が居続ける場所(=天国)を創り出した。このラストは、「何のために描くのか」の伏線を台詞なく回収する美しさが光ります。
絵画芸術は性と神とを描いてきたと言うとするなら、漫画・映画も同じ。本作は天国を描く宗教美術に近い。ラストの藤野が窓に張り付けた四コマは天国への扉。いつも自分の後ろにいた京本は、今は目の前にいる。そう思って藤野は描き進んでいくのだと、思います。
どうでしょうか?後半空想の意味と、泣ける理由を自分なりに書いてみました。
正直、前半で刺さった人は、後半ヤバイと思います。これに、押山清高監督の原動画への想いとかのっかってくる。さらに、現実の悲劇が乗っかってくる。だから、漫画・アニメ好きには、物語全体が、より切実な話になるわけで、それについては note をご覧ください。
(追記)引用していただいた記事では、みどりーぬさんの心が藤野から反発して京本に移入していく様を描かれていますね。個人としての京本をもっと描いて欲しかったという声は、実際多いですね。ライムスター歌丸さんは「松本清張作品なら、あの部屋で、京本の闇を藤野は発見するはず」とおっしゃってます(笑)。
本作は主に藤野視点ですが、京本に感情移入も出来ます。努力は尊敬するし、藤野の家庭に居場所が出来たのはほっこりするし、藤野からの自立心は応援するし、だからこそ画力上げるための大学を卒業出来ず殺されたのは無念ですね。で、映画はエンドロールで背景をアニメさせますが、「死んだ京本を背景の中に生かそうとしてる」と感動しました。だとしたら、原作改変しない範囲で、背景美術に人生注いだ京本を、アニメスタッフがきちんと描こうとしたのは凄いです。
仮に「背景の中に亡き京本がいる」なら、そこにいる京本は、机に向かう藤野に、向き合う形になるんですよ。
藤野の背中じゃなくて、藤野の顔を、ずっと見てる。
そういう天国の京本にも感動移入したのです。